1.

遠い遠い、はるかな地平線のその向こうへ、ゆっくりと夕日が飲み込まれていく。
音もなく、
響くことなく、
ただただ静かに。


あまりに平穏な、一日の終りだ。
ここには業火も、悲鳴も、血の雨の一粒もない。
あるのは穏やかな時の流れ、ささやかな日々の糧、包み込むような笑い声。
本当に、この大地と俺のいた場所が、同じであるとは思えない。今までのすべてが夢の中の出来事だったようにさえ感じる。
あの熱さも、苦痛も、悲しみも。
――手を放してしまった瞬間の、絶望的な喪失感も。



不意に、何を見ているのかと問われて、俺は振り返った。
声をかけた彼は、収穫した野菜の入った籠を手に持ちながら、俺に笑いかけていた。
俺がこの里に来てから、なにかと声をかけてくる男だ。髪の色の黒い俺とは反対に、全体的に色素の薄い男である。



夕陽を、と俺は答えた。すると彼は、珍しいのかとボケたことを尋ねてきた。
夕陽が沈むのが珍しいわけない。
俺がどこでなにをしていようと、俺がたとえ朽ちて大地に還ったとしても、星は依然として回り続け、太陽は沈み、月は昇る。何事もなかったかのように、すべては廻り続ける。


どこかで誰かの『世界』が終わろうとしていても、今の俺にはあまりに緩やかに思える。
そしてそれは、俺の『世界』が終わるときにも、きっとどこかの誰かが感じることなのだ。

当事者の苦痛をも飲み込んで、『世界』の終りはあまりに穏やかに…



不意に俺は呼吸が苦しくなって、ぐっと胸をおさえた。
その右手。
唐突に、「その瞬間」が思い出された。
迫る火の手の、その中で、下敷きにされた手を、ふり払って逃げてきた、ふりはらわれたてのかんしょくを



忘れていたわけではなかったのに。
いつの間にかこの平穏な空気の中で、風化させてしまったのだろうか。
俺は、彼女の苦痛を沈めるわけにはいかないのだ。この世界の流れの中に。


ふと、ぽんぽんと頭を軽く叩かれたのに気付き、俺は顔を上げた。
色素の薄い瞳が、俺を見つめていた。

太陽が沈むのが、そんなにかなしいのかと、彼は聞いてきた。
俺は素直に、かなしいと答えた。
かなしくてたまらなかった。この穏やかな大地が、あの戦場に繋がっているのだと感じれば感じるほど、俺にはかなしかった。
どうして手を放してしまったのか。どうして彼女は振り払ったのだろうか。
俺は、あの手と一緒に、なにを手放してしまったのだろうか。



頭に載せられた手は、いつの間にか子どもをあやすように、ゆっくりと撫でていた。
たしかに、と彼は口を開いた。


「たしかに、沈むのはかなしいけれど、でもちょっと眠れば、また陽は昇るさ」


それは決して救いの言葉ではない。
俺のこの苦しみを和らげるものではないのだ。
だというのに(いや、だからこそ)、俺は涙があふれてしかたなかった。


どうしようもなく、安心してしまったからだ。
(そしてどうしようもなく、かなしくもあるからだ)

俺は明日の太陽を見ることができるのだ。
(そして大勢の人が明日の太陽を知らないのだ)

俺はかなしみを抱えてもなお、歩き続けられるのだ。
(そして彼女は、そのときの感情を推し量れないまま、永遠に歩みだせない)

自分の呼吸を感じることに
(振り払った手のむなしさを感じるたびに)

対価として差し出されたいのちへ、最大の感謝を――絶望的な罪悪感を――抱くのだ。



うずくまった俺の背中を、暖かな手はずっと撫で続けていた。

やがて夕日は完全に沈み、辺りは再びの夜に還っていく。
小さな俺の嗚咽を、無言で飲み込みながら。



静かに終わっていくお話を目指しました。友人に捧げたお話…もっと明るい話を贈れと。