『授業前』

春の風が教室の中へふわりと侵入し、オレの隣の席で爆睡している奴のくせ毛を揺らした。
全く起きる気配が無い。周りは既にお昼を済ませてざわざわと談笑しているなかで、よくここまで寝れるものだなと感心すらする。
「なに、こいつまだ寝てんの?」
呆れ顔でオレの前に座ったのは、「ねいさん」こと寧さん。姉さん、ではない。

「学校来てからずっとじゃね?てか遅刻してきたしな」
くせ毛を一束つまんで、くいくいと引っ張るが、動く気配も無い。
生きているだろうか、と注視してみたところ、伏せている背中がわずかに上下していたので、とりあえず呼吸はしているようだ。
そっとしておこうと心に決めると、再びふわりと風がオレの頬を撫でた。
「風引くな」
ねいさんが、ポツリと呟いて着ていたジャージを脱いだ。脱いだらますます風引くんじゃないのかと思っていると、ねいさんはそのジャージを寝ている背中に被せた。 オレは、ねいさんのこういう気遣いに本当に感動する。普段、ねいさんがこの寝ている人間から受ける仕打ちを考えると、涙が出そうだ。

ねいさんは、いつも眉間にしわが寄り気味な表情なので、初対面だと少し怖い印象を受けるが、実は国宝級に人がいい。…ちょっと言い過ぎた。でもいいひと。なんていうか、それを取り上げたら何もなくなっちゃうんじゃないか、てくらいいいひとだ。
ただ、それが相応に報われないのもねいさんの特徴だと思う。あれだ。「苦労性」というやつだ。この言葉、ねいさんにぴったりだと思う。
とにかく、そんなねいさんは春先でありまだ肌寒いというのに着ていたジャージを脱いでワイシャツ一枚になってしまった。なぜジャージなのかと問われれば、学ランは既に寝ている奴の枕になっているからである。
…目頭が熱い。
「ただいまー」
不意に、一人でがやがやした雰囲気を伴ってオレの横に座った男。
「お帰り、てかどこ行ってたんだ?キング」
オレの隣の男、キングは笑いながら持っていた袋を机の上に置いた。
その笑顔は作り物かというくらい整っている。出来すぎた人形のような造りなのに、ハキハキとした生命感が溢れているのは、キングがバイタリティ溢れる人間だからだろう。
「昨日、現像出しといたんだ」
ばら、と出てきたのは… 「……」
オレとねいさんは沈黙した。
「あー、やっぱ可愛いよなー」
1人の女の子の写真だった。総じて少し距離を置いた撮影になっていて、カメラ目線など無い。
つまり盗撮だ。
「…キング、これは…」
「先週分。溜まってたから、現像してきた」
先週分というのがまた恐ろしい。

キングは、街を歩いていると10分置きくらいに声を掛けられるほどの容姿とスタイルで、スポーツだってできて、性格だってカラッと晴れたような人間なのに、このストーキングで全てを壊している残念な男なのだ。
悪意や後ろめたさを抱かないところがまた怖いところだ。よくも悪くも(多分悪いほうが分がありそうだが)、表一本で生きている人間だ。
「そろそろ、法の出番なのかもな…」
ねいさんが重々しく、何かを決意したようだ。しかし、写真を嬉しそうに眺めているキングはこれを全く無視した。この辺が苦労性たる所以なのかもしれない。
キングの悪意無き凶行を、陰ながら阻止してきたのは、ねいさんでもある。とりあえず、今のところ本当の意味でお巡りさんのお世話にはなっていない。
あんなにオープンに行動しているというのに問題にならないところなど、もう怖いを通り過ぎて謎だ。
こんな生物、高校に入ってはじめて見た。

「あ、りんちゃん見てくれよー」
教卓にプリントを置いていた人物に、キングは写真を掲げて声をかけた。
呼ばれた人物は、軽くメガネを押し上げて、オレたちの方へやってきた。
「キング、またたくさん撮ったな」
「まぁ、先週分全部だからなー」
ふぅん、と平然と受け流す様子を見て、ねいさんが「さすがりんちゃん…」と感嘆の声をあげた。オレたちとは違うね。
撮るのはいいけど、あんまり派手に動くなよ、キング。オレにも収拾つかない事態はあるから」
「りょーかい!りんちゃんに迷惑かけらんないからなー」
おっけー、とキングは素直に了解した。…さすがりんちゃん…

りんちゃんりんちゃんというが、林城という。秀才然としている見た目どおりの秀才で、クラス委員に推薦されて生徒会の執行部になるくらいの人望もある、どういうルートをたどるとこういう人間が出来上がるんだろうという清濁合わせた人格者だ
いつもつるんでいる仲間内で最も冷静で、もっとも常識人の彼である。ねいさんではないが、いつも冷静でいるから初対面はちょっと冷たい人に見られがちだ。しかし、笑うと意外に可愛い顔してるんだこの人。

「和泉、そっちまだ寝てるのか?」
不意に、りんちゃんに呼ばれて顔を上げると、りんちゃんは依然眠り続ける人物を見ていた。
「そういえば、こいつ昼食ったの?」
「昨日遅かったのか?」
ねいさんとりんちゃんの質問が被った。オレはどちらに答えようかと迷ったが、とりあえずねいさんのほうには首を振って否定した。
昨日は寮部屋に帰ってこなかった。オレと同室であるのだが、朝ベッドを見てもいなかったから、昨夜は部屋に帰ってきてはいないのだろう。そのまま直で教室に来たのだ、この男。
ということを説明したいのだが、オレはどうも話すのが下手なようで、詳しく説明すればするほど相手が混乱するのだ。今も説明を試みたが、やはりねいさんは疑問符を頭にたくさん浮かべた顔をしていた。キングは写真に夢中なので論外。
「そう。帰ってなかったのか」
1人、りんちゃんだけは不思議なことにオレの話を理解してくれた。ほんとこの人どういう頭の作りしてんだ。オレはりんちゃんに一生ついていく決意をした。
「郁。もうすぐ授業始まるよ。お昼食べないと」
それほど大きくもないりんちゃんの声。しかし、それまでピクリとも動かなかった瞼が、その声でぱちりと開いた。
「りんちゃんおはよぉ」
ひらり、と寝ていた郁は、りんちゃんに向かって手を振った。ついでに言うと、この発言が本日の一言目である。
「おい、郁。オレたちには?」
「あ、ねいさんなんかタオルとかない?学ラン湿っちゃったから代わりの枕欲しいわぁ」
「おいこら!なんで寝てるだけで学ラン湿るんだよ?!てかまだ寝る気か?!」
枕にしていた学ラン(おそらく涎つき)をねいさんに差し出して、郁はしゃぁしゃぁと言いのけた。

この仕打ちだ。いつか天罰とか下ればいいんじゃないかと思わせるのが、この郁だ。おそろしいほどのマイペースな人間であり、その構成要素の8割は「気分」でできている。
男に対しては非常に強い猛毒のような男であるが、りんちゃんに対しては妙な従順を示す。その気持ちは分からないでもないが。この反応はときたまうざい。

「郁、お昼は?」
「食べてないけど…今日持ってきてねぇんだわ」
りんちゃんの質問に、郁はくしゃくしゃの髪を掻いて答えた。
すると、あ、と写真から顔を上げて、キングが提案。
「オレのうぐいすキムチパン残ってるよ」
「たぶんキングとオレの味覚だいぶ違うと思うからそれはいらない」
にっこりきっぱり郁は断った。そっかー?とキングは不思議そうに首を傾げたが、多分オレともだいぶ違うと思う、キング。どっから仕入れたそのパン。
「ちょっこら買いに行ってくんわぁ」
「あ?おい、もう始まんぞ?!」
ひょい、と立ち上がった郁に、ねいさんが驚いて呼びかける。
「んー、この後は全部さぼるわぁ。なんかたるい。
和泉、後でノート見せてー」
じゃ、と言って始業ベルとともに、郁は教室を出て行った。この後、て…お前は今日全部サボったもんだろう。
「あいつはホントいい加減だなー」
あはは、とキングは快活に笑った。オレはこういうキングの空っぽなところがたまらなく好きだ。
ねいさんはまた深刻な顔をしていた。たぶん、郁の出席日数を数えてるんだ。どこまでも苦労性を背負う性分なんだこの人。
「ねいさん、大丈夫だよ」
そんなねいさんに、りんちゃんは苦笑気味に笑いかけた。
「オレが後で言っておくから」
そうして、ひんやりにっこりと笑う。「お、おぉ…」ねいさんは若干引き気味に頷いた。さすがりんちゃん…(3度目)


春の風は思い出したように教室を渡っていく。
こうしてオレたちの高校生活は、2度目のサイクルを迎えた。
予想もしない出来事と騒がしい生活は、未だ春のぼかしたような光に身を潜めてはいるけれど。

「世界の終り」のネイさんと違います(笑)