空がとても青いから、
その青さに免じて、どうか僕が

この足を踏み出すことを許してほしい

なんてね


『FLY ME TO THE SKY』



「飛ぶのか」

あと一歩。
僕がそれを踏み出す瞬間、背後から聞き覚えのない声がかかった。
振りかえれば金網越し、屋上階段の入口の上に、一人の小柄な少年が座っている。
空は青い。晴天だ。
なのに彼は、真黒な雨傘を差している。
「…市岐…だっけ?」
僕が疑問形で尋ねると、濃い色の付いたゴーグルの下の口元が、少しだけ上向きに動いた。
「そゆ君は、坂田くん、だったっけ?」
「…“はじめまして”?」
なわけがない。彼とは同じクラスだ。
しかし、僕は彼の声を聞いたことがないし、きっと向こうも同じだろう。
なぜなら彼は、つい先週まで学校に来ていなかったからだ。
去年の夏あたりからずっと休んでいたらしく、出席日数が足りないために留年。なので年は僕たちより一つ上になる。
「はい、“はじめまして”」
市岐は可笑しげに、すこし馬鹿にしたような笑みを浮かべて返してきた。
外見はもしかしたら僕たちより小さく見えるかもしれないのに、なんだか腹が立つ。
「ときに坂田くん、君、そこから飛ぶつもりだったのかい?」
雨傘をくるくると回しながら、市岐はひどく軽い口調で聞いてきた。
金網越しの会話。外側にいるのは、僕の方だ。
「飛んでは…悪い?」
「悪いと思うのかい?」
俺は悪いとは言ってないけども、と市岐。
「一般的に言って、今から僕がしようとしていることは自殺になるだろうね。
そしてそれはやはり一般的には悪いことになるんじゃないかな」
「ふーん?坂田くんは別にそうは思ってない、て言い方だな」
「…そうかな?僕も、たぶんそう思ってないわけじゃないけど…」
「じゃぁ進んで悪いことをしようとしているってことだな?」
「……何が言いたいの?」
少し棘を含んだ僕の物言いに、くるくる回っていた傘が止まった。
「あ、ごめ。別に君を責めるわけじゃなかったんだけど」
かた、と首を傾げて、肩をすくめた。それは本当に悪気がないような口調で。
「坂田くん、今時間はあるのかい?」
「……」
今から飛ぶという人間に、時間の意味などない。
僕は仕方なく頭を上下に動かした。市岐がそっか、と笑う。
「じゃぁちょっとお喋りに付き合ってよ。俺、今暇なんだよね」
…授業に出ろよ、とは、自分も言える立場ではないので胸にしまっておいた。

「それで、坂田くんはなんで飛ぶの?いじめにあってたわけじゃないでしょ?」
君、クラスでは割と中心的な子だしね、とまたも傘をくるくるとさせて彼は言う。
この一週間で、向こうはこちらを見ていたようだ。
そう、僕は別にいじめを苦に飛ぶわけではない。友だちは多いし、うわべだけではない、それなりに深くも付き合ってきてみんな気心の知れる奴らだ。自慢ではないが成績だっていい方だ。
今の僕は、「一般的に」見たらとても順調であり、幸せであり、苦労などない…というところだろう。
僕は市岐の問いかけに首を振った。
「…しかしね、市岐。人はそれでも飛びたくなるのだよ」
「へぇ?理由をぜひとも伺いたいね」
「…君は、高校を出たらどうするつもり?」
せせら笑うような市岐に、今度は僕が問いかけた。
市岐は存外素直に返してきた。
「大学に進みたいね。五百尾センセみたいな教員になりたいんだ」
にこりと、羨ましいくらい純粋な笑顔だ。
五百尾とは、今の僕たちの担任である。飄々としていて、どこかこの彼と似通う部分を持っている男だ。
ちょっと予想外の答えに、僕は面食らったが、そうか、と頷いて話を続けた。
「それならば、もしかしたら市岐は僕の考えが理解できないかもしれない」
「そうなん?」
きょとんと、市岐は相槌を打った。
「うん、もしかしたら。
……僕にはそれがないんだ。そういう…未来の展望が」
僕はそう言ってから、空を仰いだ。

「何も目的がないのに、時間だけがあてどなく膨大に溢れているって、とても不安なんだ」

この国に生まれた限りは、普通にしているかぎり早々簡単には死なないだろう。
このままきっと、僕は僕の学力に見合った大学へ進学し、無難な過程を修めて卒業し、別に興味もない仕事に生活の糧を得るために労働を引きかえて、残りの日々を巡るのだ。
その茫洋たる腐れ切った日々よ!
想像するだけで絶望する。
「僕は何のために生きているのだろう」
これを考えたら、きっと終わりなのだ。
そこに答えなどない。
生まれてきてしまったから、生きているのだ。それだけなのだ。
「…“漠然とした不安”かな?」
せせら笑う、市岐。
「それが見つからないから、飛ぶのかい」
「…では市岐、僕は何のために生れて来たんだい?君は何のために生れて来たんだい?」
答えてみろよ。
金網越しの彼は、一瞬だけひどく冷たい空気をまとった。
「それは、すでに終わってしまった問いだよ、坂田くん。きっと君も分かっているだろう、その問いに意味も答えもない。
強いて答えるならば、俺の答えは『生まれてこなければよかった』に尽きるね」
君の場合はどうなのか俺が知る由もないけれど、と彼は補足した。
「生まれることと死ぬことは対義語ではないよ。生まれることの本当の対義語は生まれないことだ」
なるほど、と僕は納得した。ちょっとだけ彼を見直した。
「問いかけを直さないといけないね。
では市岐、なぜ君は生きている?教員になりたいからかい?じゃぁなれなかったときはどうするんだい?
いつか君だって、僕のように目的を失う日が来るかもしれない。そうなったらどうするんだい?」
「可能性を答えにするのは危険だよ、坂田くん」
「市岐、それは僕の問いに対する回避か?」
「そう捉えて構わないよ。と言ったら、会話は終わってしまうのかな?」
僕は頷いた。そこに、この会話を続けたいという僕の願いが込められていることに、僕自身が気づいた。
なぜだろう。こんな人を馬鹿にしたような態度の奴との会話を、僕は続けたいのだ。
そんな僕の気持ちを読んだように、市岐は嗤った。
「俺の答えは簡単だ。
少なくとも、教員になる前にやるべき目的があるからだ。
それは俺が生きている限りはなくならないし、俺にしかできないし、そして俺自身が諦めることを決して許さないから、その目的が喪失することはない」
僕は彼の答えに落胆した。
結局市岐は、『答えを持った人間』なのだ。僕とは『違う人種』なのだ。
「がっかりしたかい?」
憐れむように、市岐が尋ねてきた。
あぁ、がっかりだ。
「市岐は『記憶に残る』人間なんだな」
「?なにそれ」
それまでのどこか超越したような、達観したような雰囲気が崩れて、年相応の抜けた声音が返ってきた。
それが聞けたことになぜだか一本取ったような気分になって、僕は彼の問いに答えてやった。
「僕のように茫洋とした未来しか見えない人間は、やがて人々の記憶から消えていくんだ。
きっと、高校を卒業したら多くの友人は僕のことを忘れてしまうよ。
しかし君は違う、市岐。君のような確固たる目的を持っている人間は、長い時間を経ても人の記憶に残るものだ」
思い返してみろ。
これまで出会ってきた人間の中で、記憶に残っているものというのは、きっと何かしらの分野に優れているか、突出しているか、あるいは意志の強い人間であった。
それがたとえ直接会話をしていなくても。
僕はそこまで抜け出ていない。まだまだ凡庸の範疇だ。そしておそらく、ここを出ることは叶わない。
結局は、僕の“不安”とはこれなのだ。
いつしかみんなの記憶から零れおちていく存在。
生きていても死んでいても変わらない存在。
二度と出会わない別れは、限りなく死別に近い。
そうだろう、市岐。

幾寅くんです。高校の時の彼はなんとなく意地悪です。