僕は挑むように彼を睨んだ。
市岐は僕の言葉に一拍きょとんとした顔をしてから………なぜだか弾かれたように爆笑した。
「はははははは…!!なるほど!そういうことか、坂田くん…!」
のけぞるように空を仰いで笑い続ける市岐の白金髪が、太陽にきらめいた。
僕はその反応に腹が立つどころか、妙に乾いたその笑い声に背筋が凍った。
「『だから』君は飛ぶんだな?みんなの記憶に残るように。必死だな、坂田くん」
「ひ…必死で何が悪い!」
僕はここで、初めて声を荒げた。それは、あるいは彼から受けた何か不気味なものに抵抗をしようとしていたのかもしれない。
「君のような目的を持った人間には分からないだろう?!
みんなの記憶から忘れ去られてしまうことがどんなに怖いのか!」
「悪かないさ。だがね、君のその勇気と決意には悪いけども、人の記憶はそう簡単には薄れるものではないよ」
何を言っているのか、と言い返そうとして、彼が僕を、何か眩しいものでも見るかのように哀しそうな微笑みを浮かべているのに気づいた。
僕は言うべき言葉を失ってしまった。
「君が…君自身が誰かを忘れていると思っていたとしても、それは所詮表面上でしかないんだ。
深いところにはほんのささいな記憶が引っ掛かっていて、それはふとした瞬間の衝撃で簡単に浮上してくるものなんだよ。
『忘れてしまったと思ってるだけ』なんだよ。良くも悪くもね」
市岐の口調は、それまでのせせら笑うような嘲りの匂いはなく、まるで(それこそ)教師が生徒を諭すようにうたった。
「忘れられる怖さなら、俺も知っているよ」
悔しさも、憎さもね、と市岐は続けた。
それは、おそらく真実を語る口調だった。
「……みんなが、君のような人間ではないよ。きっと頭の軽い人間もいる。目の前の快楽に目移りして、人との関係を軽んじる人間だっている」
「や…なんつか、俺だけに当てはまることじゃないんだけどね?
てか、そうだとして…坂田くんはそゆ人にも自分を覚えていてもらいたいの?」
僕は首を振った。こちらから願い下げだ。
なぜ僕がそんなことを言ったのか。市岐の答えを聞いたとき、僕の問題は変化していたからだ。
笑ってしまう。
僕は、僕を覚えていてほしい人が分からない。
「そう。ならいいか。君がそこから飛べば、きっとそゆ人以外で覚えてくれる人はいるってことだ。
飛ばなくてもいるとは思うけどね、君の勇気と決意を俺が奪うわけにはいかないしね」
違う…違うのだ、市岐。もうその問題ではないのだ。
市岐は傘を閉じて、ひょいと入口の上から飛び降りた。驚くほど、その着地の音は小さかった。
「少なくとも」
そして、再びぱん、と傘を開いて肩に乗せた。
「俺は君のことを忘れはしないよ。今のこの会話ごとね。
君は、俺のことを忘れてしまうと思うけど」
「…言ってることが矛盾している」
反論しつつ、しかし僕の手は金網を握りしめていた。
答えが欲しいのだ、市岐。僕に答えをくれ。
彼は僕の心を知ってか知らずか、はは、といたずらめいた笑いをした。
「これが矛盾してはいないんだな。いつか分かる…て、そうか、坂田くんこれから飛ぶんだもんな。分からんか」
残念だね、と肩をすくめる市岐。
悪いが、そんなことはどうでもいいんだ。
「それじゃぁ、邪魔したな、坂田くん」
僕は金網を握りしめる。僕の後ろには広く広がる青い空。あてどない空。
僕は問題を置き去りにして、この空に飛ぶしかないのか。
それこそ、一体何のために生きてきたのか。

「ところで坂田くん」

俯いた僕に、どこまでも軽い調子で市岐が声をかけた。
「俺は君がその金網を越える一時間前ほどからここにいたわけだけど、今日はとても寒いね。
体が冷えちゃったので食堂に行って温かいものでも飲もうかと思うのだけど、『時間』があるなら一緒にどうかね?」
寒いのが分かっているなら大人しく暖房の効いた教室に行って授業を受けろよ、とは、間違っても言えないので、僕は黙って金網を越えた。

これから飛ぶ人間に『時間』の意味などない。
しかし僕にはこの瞬間、問題が発生していた。目的、には遠く及ばないものであり、僕は依然として凡庸な人間のままではあるけれど。
『誰か』に覚えていてもらいたいのではないのだろう。
『そいつ』に覚えていてもらいたいその『誰か』を考えなくてはならない。
飛ぶにはまだ早い。
と、素直でない僕は素直にそう思うことにして、細く小さな背中を追いかけた。
答えを求めていた空を、今は背にして。


他人があって初めて確証されるのに、その他人に振り回されてしまうよね、ていう話…だけではないのだけれど