朝からダルイとは思っていたが、単に暑さの問題だと思っていた。
児童心理の講義が始まってそろそろ1時間。腕に走った痺れに、どうも様相が違うなと感じ始めていた。
後30分。耐えられる耐えられる、と言い聞かせて、俺は気に留めずノートを取っていた。
これがいつも裏目に出るんだよな、と心の隅っこで苦笑しつつ。

校舎から外へ出て、強い日差しに身を投じる前におなじみの傘を広げた。
俺のことを初めて見るらしい学生が、不思議そうな顔をして横を歩いて行き、二回振り返った。
どうも、と心中で呟いて、肩をすくめて苦笑する。
カミングアウト、と口の中で転がして、俺は山本の寮室に向かって歩き出した。
俺はカミングアウトするまでもなく、この外見だから一見すれば傘の事情も、遮光眼鏡の理由も察することはたやすいはずだろう。
しかし高柳は違う。
彼は自分の口で言わないと誰にも知られない。
自分の「言おう」とする意思がないと伝わらないのだ。
一体どんな気持ちで俺と山本に告白したのだろうか。間違いなく、そこには自分の想像の及ばない覚悟があっただろうけれども…

山本の部屋の前に来て、ノックもせずに開けるのはいつものことである。確かこの時間は向こうは講義がないから部屋にいることが多いのだが。
ドアノブを回すと、がちりと硬い感触がする。くそ、いないのか。
残念ながら合い鍵と言うものを持っていない俺は、蹴破ってでもしないとこの扉を開けられそうにない。
ずるずると扉の前に座り込み、さぁどうしようかと考えた。考えるまでもなく、このまま保健室へ行けばいいのだが、そこまで行くのが面倒くさい。徐々に上っていく熱とともに、手をつないで眠気までやってきた。
山本の部屋の近くって、誰かほかにいなかったかな、と並ぶネームプレートを眺めていくと、『高柳』の名前が見えた。
高柳って……高柳だろうか。寮室が特に学年順だとか学科ごとだとかではないので、もしかしたら違う高柳かもしれない。
俺は足に気合いを入れて立ち上がる。
違ったら違ったでその後考えよう!うん!
「高柳?」
力の入らない腕で、かすかすとドアを叩いた。「はい」
中から聞こえた声は、間違いなく高柳だった。俺は一瞬、ドアノブに手をかけるのを躊躇ったが、その理由を瞬時に笑い飛ばしてドアを開けた。
「市岐…。どうした?」
どうやら部屋には高柳一人で、突然の俺の来訪に目を丸くしていた。
俺はできるなら体調の不良を気づかれたくなかった。この熱は一時的なもので、おそらく明日になればさっさと引いているものであると、経験上分かっているからだ。
「ごめ、ちょっとベッド貸して。次の授業まででいいから」
「はぁ?おい、いち…」
はいはいごめんよー、と軽口を叩いて、荷物を投げ捨てて俺は高柳が背もたれにしていたベッドに転がった。
一時間半。それからだろう、本格的に熱が出るのは。そのころになっていれば、きっと山本も戻ってきているだろうし、そしたら向こうに転がりこめばいい。俺の扱いに関して、山本はよく分かっている。
眼鏡を外して枕もとに転がす。部屋の照明が明るいので、腕で目を覆った。
はるか頭上から、高柳がため息をついたのが分かった。俺が友だちの部屋に転がり込むことは、高柳もよく知っている。ここに転がり込んだのは、今日が初めてだけど。
「市岐さぁ…」
眠りの波間に漂う意識に、高柳のバリトンが響いて……不意にベッドが傾いた。
「この間の俺の話、ちゃんと聞いてた?」
「…あ…?うん、……聞いてた」
浮遊する意識を何とか捕まえて、俺は高柳に返した。彼の言っていることが、この間の食堂でのことだとは明白だ。
「あれ、俺本気なんだけど」
「…?そうだろ…?」
「じゃぁ」
次の瞬間、取り払われた腕の向こうから、白い光が目を刺した。「?!」
強い光の刺激で、脳が一気に覚醒する。取り払われた腕が、頭の上の方に強い力で固定された。
まぶしい!残された手で眼鏡を取ろうとするが、その手もまた「掴まれ」て同じ場所にまとめられた。
一体何だというんだ?!
完全には開けない目を、なんとか開いて、その一瞬、黒い影となっている高柳が、俺の上を覆っているのが見えた。
高柳の肩越しに照明が照っていて、それと彼の肩の影が、白と黒のいびつな境界線を描いていた。
「…なんでここに転がり込むんだよ」
小さなかすれた声が、その影の方から降ってきた。
その声があまりに戸惑っているように聞こえて、俺は彼の顔を見ようと目をこらしてみたけど、じりりとどうしようもない痛みが網膜を走って、結局きつく目を閉じてしまった。
衝撃を緩和させようとする涙が、眼尻に溜まっている感覚がした。
「なんで、て」
覚醒した脳みそが、正確に目の痛みを拾ってくる。それを押しのけて高柳の問いに答えようとすると、ふ、と薄い影ができた。高柳の体が照明の影になったのだと分かった。
うすく目を開くが、それでもやはり高柳は黒い影でしかなかった。
「同性愛者の部屋だぞ?」
「高柳の部屋だろ」
「だから、俺がそうだって言ってんじゃん。何聞いてたの、市岐」
やや嘲笑気味な声が響く。笑っているのは確かだ。
「その人間の部屋に来て寝転がる、て、普通しなくね?」
「知るか」
「やっぱ聞いてねーんじゃん」
「聞いてた」
「聞いてない。絶対冗談だと思ってる」
「決めつけんなって。どーしてそうなんの」
「だって普通来ねーもん」
「だから!ふつうってなんだよふつうって!お前の言う普通が分かんねーよ!」
「だったら想像くらいしろよ!!」
それは初めて聞いた、高柳の怒った声だった。
「市岐は知らないだろ。同性愛者が、恋愛にどう悩んでるかなんて。
決定的に人口が少ないから、『同じ人間』がいたらすぐにセックスに走る奴らが多いんだ。
そこに愛なんてない。ただ空っぽの渇望が空っぽの何かで埋まっていく錯覚がするだけだ。
本当に埋めたいのはそこじゃないのに」
抑制された痛みと、怒りと、悲しみが入り混じった声に聞こえた。
高柳の顔を見たいのに、目を凝らしてもぼんやりとした黒い影が、そんな声を落としてくるばかりだった。
彼が見えない。
「少し考えれば想像くらいつくだろ。
そんな渇望した人間の部屋で何の疑いもなく寝転がるくらいのリスクは。
市岐はそれも考えなかったの。ここで俺に…」
そう言いかけて、声が詰まった。動かない影。
考えなかった。といえば実は嘘になる。だが…
目を開いていられなくなって、一度固く目を閉じた。瞼の奥がカチカチと点滅する。それに合わせて、眼球に這う毛細血管が引きつるような痛みが脳まで響いた。
せめて高柳の顔が分かれば、表情を見れたら、言うべき言葉が分かるのに。かけてやりたい言葉が選べるのに。
と、不意に腕を固定していた高柳の手の片方が離れて、額に掛かる前髪をのけた。それから、額に手を立てるようにして(ちょうど敬礼のような形で)、影を作った。
「怖い?」
その影のおかげで見えた高柳の顔に、その表情に、俺は確信した。
諦めたような笑みを浮かべた高柳に、俺は言う。
「怖ぇ。すっげー怖ぇよ」
素直に、考えたままを彼に伝えようと。
寂しげな笑みを深めた高柳を見て、俺は慌てて後を繋げた。待て、早とちるなこら。
「高柳が怖いんじゃない。高柳からその『暴力』を受けるのが怖ぇの」
今回はそれが『強姦』という形をとる可能性があるということだけで、それは一方的な殴り合いの形を取っていたって同じように怖いだろう。
「高柳、俺もね、俺なりに結構考えたよ。さっきお前が言った可能性も、考えた。
そこに怖さも感じた。……さっき、この部屋のドアを開けるのを躊躇した」
『もしかしたら?』と考えた自分がいたことは確かだ。
「一瞬、お前が見えなくなってた」
とにかく分からなかったのだ。同性愛者というものが。
その一点の事実だけで、3年間も付き合ってきた彼の姿が、途端に黒くなって見えなくなってしまった。
それをクリアにしたのは、やはり山本であった。


空に煙をふかせて、山本は答えた。

「調べたよ。高柳から聞いた後さ。
俺、彼らのこと何も知らなかったから」
つっても、ただネットで検索して落ちてきたのを読んだだけなんだけどさ、と山本は苦笑した。
「知りたければ高柳に聞くのが一番いいんだろうけど、俺たちに言うだけでも相当の力が必要だったろうからなぁ」
いつか尋ねるだろうそのときに、少しでも彼の『傍』で耳を傾けられるように。
「知って、あぁそうなのか、て思って、俺的高柳のプロフィールに一つ追加、かな」
あぁそうか。
そういうことなんだ。
今まで出会ったことのない事実を示されて、ちょっと頭が混乱していたようだ。
”プロフィールに一つ追加”
それだけの事実なのだ。彼の本質が変わるわけではない。ただ新しい事実が加わる。それだけなのだ。
数時間前に一人で勝手に発生した疑惑など、俺たちが築いてきた3年間の事実の前には些細なことでしかない。
そこに多少の嘘や偽りがあったとしても、それが露見するまではそれらをひっくるめて『高柳』という人間を信じていればいい。


「高柳の気持ちや悩みを、もしかしたら俺は分からないかもしれないけれど」
考えてはみたけれど、確かな手ごたえとして高柳の気持ちになれたとは思えなかった。
俺には彼らの気持ちが、きっと真には分からないだろう。
高柳は深い眼差しで俺を見下ろしていた。
けれど、俺は『お前』のことは知っているんだ。こうして、『二度』も影を作ってくれる奴だってことは、間違いなく。
それがあるから、俺は扉を開けられた。
「俺はそのことでお前を『分からない謎のモノ』とは見ない。
だって」


『きみはともだち』


その真実に変わりはない。
「だいじょうぶだよ」

不安を抱えている友人に、これだけは確かに言えることだった。


高柳は何も言わずにほほ笑んだ。一瞬それが、さっきの笑顔に見えて、あ、と何かを言おうとしたが、その視界を手のひらで覆われた。
その暖かさに、唐突に疲労と眠気が舞い戻ってくる。
「ありがとうな、市岐」
低いバリトンが囁く。固定していた手が、そのまま腕を体の横に添えなおして離れようとするから、思わず掴んだ。
まて、ちゃんと伝わったのか?俺の言いたいこと分かったのか?
わずかに唇が動くだけで、それは音にはならなかった。
高柳は掴まれた手をぽんぽんと叩いて、やんわりと外した。
「目、冷やすもの、何か持ってくるから。寝てていいよ」
おやすみ、と言われてしまった。
そっと置かれた手にはもう力が入らなくて、照明が消えて静かに扉の閉まる音を聴きながら、ダメだったかなぁと歯がゆさを感じた。
山本のように広く、言葉を介さないで認められるような器があればいいのにと、こういうときにいつも思う。


やがて穏やかな波が引くように、そんな自分の無力さも無駄に考える思考も、まるごと眠りの大海まで持って行かれてしまった。




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何かを言わないと前に進めない