「そこ、じきに陽が差しこんでくるよ」
3年前の図書館で、窓側の席で寝こけていた俺に、彼はそう言って起こしてくれた。
危うく屋内で熱中症になりかねた地味な危機を、高柳は救ってくれたのだ。


相手を信じる、なんて、実は単なる責任放棄なのかもしれない。
自分で考えることをやめて、相手の思慮に全てを任せてしまう行為なのかもしれない。
高柳は何であんなに怒ったのだろう。
俺が考えてないと思ったから?冗談として受け取ったと思ったから?
自分の真摯な告白に、「俺はお前を信じるよ」なんて全部を投げるような返答をされたら…怒る気持ちが分からないでもない。
きちんと考えてくれ、て。それだけの意味を持つ告白だったのだから。

「…昨日はごめんな。何であんなに腹が立ったんだろう、て自分でも不思議なんだ」
目が覚めると、俺はまだ高柳の部屋で寝ていて、どうやらあの後予想通りに熱を出して、予想外に引かない熱を持ったまま寝こけてしまっていたようだった。
半端に浮上していた意識が記憶したものが正しければ一度、山本が来て部屋を移動するかどうするかの話しになったが、高柳がここで寝ていて構わないと言ってくれたので、ずっとベッドを借りっぱなしでいる状況だった。
「市岐の態度がさ、全然変わらなかったから、ちゃんと聞いてたのかな、てさ。
それはとても喜ぶべきもののはずだったのに、なんだか…不安になったんだ」
体はだるくて仕方ないのに、意識だけは鮮明としていて、高柳のその声の、言葉の一つ一つを聞き漏らすまいとしていた。
「今までも、そんなに多くはなかったけど…このことを伝えたことがあったんだ。
そのときは、こんなふうに接してくれる事なんてなかったから。よそよそしくなったり、明らかに避けられたり、…それが分からないわけじゃないんだけど」
ベッドにうつぶせるように上体を預ける高柳の横顔があまりに無感動だったから、それがどれだけ彼の心を引っ掻いてきたのかが容易に想像できた。
そして、それでもまた俺たちに打ち明けた彼の覚悟と、傷つけられても告げられずにはいられないその事実の大きさを知った。黙って抱えていられるようなものではないのだろう。
分からないわけじゃない、なんて言うなよとか言いたかったけど、現実問題、それが真実であることは俺でも分かった。彼の前にある壁は、あまりに大きくて冷たい。
俺は胸のあたりにある高柳の頭に手を伸ばして、ぽんぽんと軽く叩いた。
高柳はその手を掴んで、じっと手のひらを見つめた。
「白いね」
素直なその感想に、苦笑。
「高柳は…なんで俺にも打ち明けてくれたの」
それは一度質問したことであったけど、俺はあれが本当のこととは思っていない。
高柳は小さく笑って、掴んでいる俺の手をちょっと掲げてみせた。「これ」
手か?と聞き返すと、彼は首を振る。
「色だよ、市岐」

そのとき、3年前の同じような夏の日、高柳と初めて会ったときのことを思い出した。
気まぐれに座った窓側の席で自殺行為にも等しい居眠りをしていた俺を、彼は起こしてくれた。
高柳は俺の肌の色で判断したのだろう。日光にさらすことの危険を。
この肌の色を見て奇異の感触を持たれることはあっても、そうした優しさに出会ったことは少ない。
その優しさが単なる親切心だけでなく、少なくない勇気も必要であることは俺も知っている。

「俺も3年間、市岐のことを見てきたから、なんとなく市岐がこの体のことで『どうしようもない』って苦笑しているのも見てきた。
きっと『痛み』の分かる奴だって思ったから」
高柳はそう言って、自分で苦笑した。
「絶対に哂ったり、一方的に嫌悪したりしないって踏んでた。驚かれはすると思ったけど、きちんと受け止めてくれるって信じてた」
それは間違いなかったんだけどさ、と高柳は肩をすくめる。「こっちが驚いたよ」
あまりに普通で。いつも通りで。
逆にそれを意識してはいたのだけれど。
「高柳は高柳なんだから、別に態度を変える必要なんてない」
「お前って真っ直ぐだね」
恥ずかしいこと言ってるよこの子。そうか?と聞き返すと、迷いなく彼は頷いた。
「市岐、人ってそんなに真っ直ぐ信じるに値するものかな?
お前はどうしてそんなに俺のこと疑わないの?今までのすべてが偽りだったとか思わねぇの?」
「今まで積み上げてきたものが全てだからだよ」
高柳の問いに、俺は即答した。
そしてそれが『よいもの』だったから、俺は高柳の部屋にいるんだ。
その『よいもの』がこの先、ずっと続くかどうかは考えるだけ無意味な気がした。
そんな未来に疑問を抱くくらいなら、今目の前の高柳の気持ちを知るために悩みたい。
「やっぱり真っ直ぐだ」
確信するような彼の口調に、俺はちげーって、と訂正しておいた。高柳はそれには同意してくれなかったけれども。
真っ直ぐなんかじゃない。ただ、もう最低な人間を知っているから、高柳が恐れていることで彼への認識を変えるなんてことがないだけなのだ。
山本のような寛容さを持てない俺は、人を受け入れることに理由が必要だった。
それだけでしかない男なんだけどな、と思っていたけれど、どうやら彼の中で俺の位置が決定してしまったらしいので、それで彼が落ち着くならそれでいいかとも思った。

「高柳」
ん、と返事が返ってくる。
「みんなには言うのか?」
「………」
高柳は押し黙った。長い沈黙だった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「…今は……言えない。怖くて言えない」
心の底からの恐怖の声音。俺はかつてこれを聞いたことがあった。
そこには、立ち向かうべきものへの拒絶的な恐怖と、理不尽な諦観が含まれている。自分は決してやましいことなどしていないのに、なぜだか抑圧されるのだ。その理由が分からないままに。
「けれど」
逆接で、高柳が続ける。
「いつかは言いたい。声を大きくして、主張してみたいんだ。
こういう人間もいるんだ、て。悪いことじゃないだろ?」
否定する理由がなかった。俺は大きく頷く。
「そのときは、俺の手、もっかい取ってくれな」
掴まれたままの手を、ぐっ、と握り返した。
からりと、高柳の笑う顔を一日ぶりに見た気がした。「ありがとう」と、彼は笑う。
「市岐に話してよかった」
「高柳が話してくれてよかった」
それは心からの感謝だった。

いつか、彼が動き出すときには、自分もその背中を押そう。
高柳の存在が全ての意味で受け入れられるために、この手が少しでも力になれたらいい。
高柳が俺の手を強く握って、何度も頷いた。


共に行こう、友よ。
道は険しいかもしれないけれども、その為の手は今、互いに握っているものがあるのだから。




end

たとえそのとき、自分がきみの傍にいられないとしても