CHAPTER:00 遠き未来への約束
 
 「大丈夫だよ。お前を傷つける奴は」
 
 
 そうして言葉を続けた彼の横顔は、なぜだか知らない人間に見えた。
 
 
 
 
 CHAPTER:01  Like the dance of flame and ice
 
 
 彼を初めてみたとき、正直、幽霊かと思った。
 
 
 殴られた頬が、ジンジンと熱を持ちつつもそのままに、幼い俺は夜道を公園へ向かっていた。
 (いつものことだ)
 口の中が鉄臭い。
 唾を吐き出してみると、暗さに黒く、少し先の電柱の光でわずかに赤く。
 (いつものこと)
 いくら周りの同じ年の子どもより力があったとしても、それでどうにかなる相手ではない。
 目につくというのなら、向こうがいなくなるまで自分がその場にいなければいい。
 むしろそれしか、当時の自分には回避と防御の術を持っていなかった。
 あとは……自分より弱い者を虐げるだけしかできない、非力。
 
 ぐっ、と擦り傷の拳を握りしめる。
 自分が相手にしていることは、自分があの男にされていることと同じだということは、とっくに気づいていた。
 けれど、そんな理解は感情の前に無意味だ。
 自分の意思を突き通すには、そのとき、俺の持っていた手段はあまりに限られていた。
 
 
 通い慣れた公園に着くと、ようやくホッと息が付けた。
 あの時期はほぼ毎晩、俺はこの公園に逃げ込んでいた。
 夜の公園と言えば、同い年のこの間では怪談に持って来いの場所ではあるが、逆にそれがよかったのかもしれない。
 こんな気分で、顔見知りなんて会いたくなかった。
 
 そこへ
 
 きぃ、と軋んだ音。
 ぎくりと振り返れば、白い影が、並んだブランコの一つに座っている。
 「……っ…?!」
 一瞬、幽霊かと思った。
 
 が、しかし。
 「……だれ」
 
 喋ったのは子どもだ。
 肌も、髪も白い。着ている薄茶色の服が、唯一その子どもに彩りをつけていた。
 「…お、お前こそ……見ない顔だな」
 ぼんやりとこちらを見ているその白い子どもは、自分より下に見えた。
 「…きのう…の、前、くらい。ひっこしてきたから」
 ブランコに座るそいつに近寄って見ると、薄い色の瞳が見上げてきた。
 初めて見る色だった。こんな色をした人間がいるんだ、と、まじまじと見てしまった。
 染めてるのか?と思って、ぐっ、と前髪を掴んで、
 「いた」
 上がった声に、思わず手を離した。痛い、て言ったのか。
 「ちょ…ちょっと掴んだだけじゃねぇか…」
 「?」
 弁解してみたが、声を上げたはずの子どもはきょとんとしている。
 なんだこいつ。
 なんだかよく分からない生き物だったが、しかしその色が面白くて、俺はやはり凝視してしまう。
 灰色の目だ。瞳の縁が、僅かに赤みを帯びている。
 
 後に、彼がいわゆる「色素欠乏症」というものであったことを知るわけだが、このときはただ、その淡白さに興味が湧いていた。
 
 「は」
 「は?」
 くしゃ。と、白いのがくしゃみをした。
 それにすら、俺は驚いた。くしゃみするのか、この生き物。
 「……そろそろ、帰る」
 「お、おぉ?」
 唐突な宣言に、俺は頷くしかない。そもそも、何でこの白いのはここにいたのだろう。
 ブランコから降りると、やはり相手は自分よりずいぶん小さかった。少し強く押したら、そのまま後ろに倒れてしまうんじゃないだろうか。
 …なんて認識は、背が伸びた後でも変わりなかったのだが。
 「帰らないの?」
 ふと俺を見上げて、白いのが尋ねる。
 「ここに来たばかりだから…まだ、帰れねぇよ」
 「…ふぅん…?」
 白いのは首をかしげて、曖昧な相槌を打つのみだった。
 …それ以上、聞かれなくてよかった。と思った。
 「…うちに来る?」
 「……………………ぁあ?」
 「子どもがこんな時間に、こんなところにいるの、あぶない」
 そのセリフに、なぜだかそのときの俺はカッ、と頭に血が昇った。
 「いたっ」
 さっきよりもずっと荒く前髪を掴んで、相手の頭を引き寄せた。
 「誰に向かって…っ」
 
 罵った間近の、そいつの目に、一瞬、黒い影がよぎった。
 
 …ように見えた。
 
 「っ…?!」
 思わず手を離すと、やはり白いのはきょとんとこちらを見ている。
 気のせい…か…?
 訳が分からずに、ぼんやりとしたその白を見ていると、わずかに首を傾げて、小さな手が伸ばされた。
 そ、と頬に触れた手は、思った以上に熱い。つーか普通に熱い。
 「ちょ…おまえ」
 「赤い。いたくないの?」
 どうやら殴られた頬を言っているようだ。「別に」
 痛いと言ったところで、何かいいことが起きるような気もしなかった。
 ふうん?と言いながら、やはりそれ以上は聞かないものの、何を思ってるのか、ゆっくりと熱い手が頬を撫でた。
 「な…くすぐったい…!」
 思いがけず撫でられたことに驚いて、俺はその手をはたき落とした。「いた」
 「……お前、それ、痛くないのに痛いって言ってるだろ」
 「…?なにが?」
 「なにが、て!お前がさっきからすぐ痛いって言ってんだよ!」
 「?」
 ことりと首を傾げて、そいつは反対側の手を伸ばして、今度は逆側の頬を撫でる。
 「…やっぱり、はれてるよ?」
 「……」
 こいつはちょっとどころでなく馬鹿なんだな、と思った。
 話しても通じないと決めて、俺はとりあえずここから離れようと背を向けると、ぐっ、と腕を引っ張られた。
 「…なんだよ」
 「?どこいくの?」
 「どこでもいいだろ、お前に関係あるのかよ」
 「?いや…?」
 「じゃぁ放せよ」
 「うん?…うちに来い?」
 「なんでだよっ?!」
 突然の頼みごと(しかも上から眼線か!)に、しかもなぜだか疑問符がついてしまっている相手の言葉に、俺はどうしようもなくそれだけしか突っ込めなかった。
 「けがは、ちゃんと手当しなきゃね、けがした子を見つけたら、おうちに連れてきなさいね、…」
 て、母さんが言ってた、とそいつは答えた。
 「それ、たぶん、いたいよ」
 そうして、俺の頬を指す。
 
 正直、変なものに捕まったと思った。
 しかしその掴まれた体温と、この頬を「いたい」と示してくれたその率直さが、このときの俺の足を止めたのだ。
 …なんてことは、このときは全く分からなかったけど。
 
 
 
 「止まりなさい、いくちゃん」
 家の扉を開けると、仁王立ちの小さな女の子が眉を寄せて立っていた。
 真黒な髪と大きな目と、手を繋いでるこの白いのよりかはずっと健康的な肌の白さの、とても可愛い女の子だ。
 「…またはだしで行ってしまったのね。ちゃんと靴を履きなさい、て何度言わせるの?」
 「ごめん、いくのちゃん」
 「いくのちゃん、じゃなくて、お姉ちゃん」
 「?お姉ちゃん?」
 やはりどうしてか疑問符の付く言い方にも、しかしその女の子はそれでいいようで、無言でうなずく。
 つか、こいつ裸足だったんだ。と、俺はそこで初めて気づいた。
 「それから、この子はだれ?」
 大きな黒眼が、す、と流れて俺を見た。その深い黒色に見透かされそうで、俺は思わず半歩下がりかけた。
 「けがした子。おかあさんは?」
 無意識なんだろうか、俺と女の子の直線を遮るように白いのが動いた。
 「…テレビのある部屋にいるわ。足拭いてから上がって」
 後ろ手に持っていたらしいタオルを彼に放ると、女の子はさっさと奥へ歩いて行ってしまった。
 彼女はどうやらこの白いののお姉さんのようだが、こいつもあの子も、自分からみたら年下に見えていた。
 「いこう」
 何事もなかったように足を拭いた白いのは、俺の手を引っ張るとすぐ横手の扉を開けて、中へと入った。
 「ただいま」
 「おかえりなさい、いくちゃん……と、あらあら、お友だちかしら?」
 ソファに座っていた女性が、にこりと笑いかけた。どうやらこの人がお母さんのようだが…
 時刻はすでに0時に近い。そんな時間にこんな弱そうな白いものの外出と、俺みたいな子どもが出歩いていることを全く気にしない様子がもの凄く不思議だった。
 そこには、万が一、という不安さえない。
 「けがしてるんだ」
 と、心の中で首を傾げている俺を、よいしょ、とばかりに女性の方へ押し出した。「ちょ…」
 「あらほんと。ちょっと赤いわね…」
 目の前の俺に、さっきの白いのと同じようにそっと頬に手を当てる。
 「もう…だいぶ時間が経ってしまったようね」
 柔らかく小さく微笑むその女性の顔を見て、俺はぎくりとした。…この人は『わかった』のだろう。
 「もう少し時間が経てば引いてしまうかもしれないけど、冷やしておきましょうね」
 そう言って、立ち上がって、「ええと…」と、首を傾げた。
 「いくちゃん、お母さんにこの子の名前を教えて欲しいな」
 「?」
 女性にそう言われて首を傾げる白いのを見て、あ、と思った。
 そういえば、黙って夜道を歩いてきてしまったので、未だこいつに名乗っていなかった。こいつの名前はさっきから呼ばれているから、「いく」か、「いくなんちゃら」という名前なんだろうとは思っているけど。
 「……まだ自己紹介がすんでいなかったのね…」
 察した女性が、うーん、と腕組をして俺たちを見下ろした。
 「いくちゃん、ご挨拶は最初にするものでしょう?」
 「はい…」
 「じゃぁ今から。はい、二人とも」
 俺もか、と驚いていると、白いのがこちらを振り返る。
 「はじめまして、いちき…………いくとら?」
 「聞かなくていいのよ」
 「いくとら、です。よろしくね」
 「よくできました。…あなたのお名前を教えてくれるかしら?」
 白いの…いくとらの頭をぽんぽんと撫でた女性は、くるりとこちらを振り返って笑いかけた。
 「……や、…山本……知空」
 「ちから?」
 間髪いれずに、いくとらが繰り返したので、その柔らかな響きに驚いて思わず頷いた。
 すると、彼はそこで初めて、ぼんやりとした表情を小さく笑わせて、もう一度名前を呼んだ。
 
 一体いつぶりだったのだろう。
 母以外に、こうやって優しく名前を呼ばれたのは。
 
 
 その夜、いくとらのお母さんが俺の家に連絡を取ってくれたようで、俺はそのままこの家に泊まった。
 おばさんは俺といくとらの布団を別々の部屋に用意してくれようとしたのだけれど、いくとらが「なんで?」と首を傾げたことに何故か驚き、俺を振り返って言った。
 「隣に寝てあげてくれていいかしら?」
 特に断る理由もなかった。むしろ、なぜ確認されたのかが不思議だった。
 しかしその理由は、早朝も早々に分かる。
 
 久しぶりに、"階段を上がる足音"に耳を澄ませることなくゆっくりと眠った翌朝。
 微かに聞こえる包丁の小気味の言い音に混じって、誰かのうめき声が聞こえた。
 「………いくとら…?」
 小さな音に敏感になっている自分の耳に届いた音に目を開ければ、隣の布団で眠っているいくとらの苦しげな顔が見えた。
 思わず飛び起きて、小さな肩を揺さぶる。
 「おい、どうしたんだ?」
 「…っ……」
 微かに彼の口から洩れる呼吸が空気を揺らすから、俺は耳を口元に寄せた。「いたい」
 一言、小さく小さくそう言えば、後はただ言葉にもならないうめき声が漏れるばかりだった。白い手が同じくらい白いシーツを握りしめ、痛みを散らしているように、小さな足が布団を追いやる。
 俺は慌てて布団から飛び起きて、昨夜の居間へ駆け込む。隣続きになっている台所にいたおばさんが、「あぁ、おはよう」と振り返る。
 「あ、の…!とらが…いくとらが…!」
 自分でも何故こんなに焦っているのか分からないくらい、言葉が浮かんでこなかった。
 しかしおばさんは心得たように頷く。
 「えぇ、えぇ、そうね、もうそんな時間だものね。ありがとうね、知空くん」
 ぽんぽんと俺の頭を優しく撫でると、おばさんは「そこにご飯あるからね」と何もかもが準備されていたテーブルを指して、居間を出て行った。
 ………どういうことだ…?
 柔らかに湯気が昇る、テーブルの上のマグカップを眺めながら、俺は考えた。
 …つまり、おばさんはこれを予想していたのだ。俺がこの時間に起きてくることを予想していた。だから、昨晩、俺に尋ねたのだ。もちろん、俺にその意味が分からないことを承知していただろうけれど。
 そうしてそれが示すことは、毎朝あの白いのは"こうして"目覚めているということだ。
 
 
 落ち着かずに朝食を食べ終わると、おばさんが戻ってきた。
 「…あ、あの…」
 あの白いのは?と聞こうとして、言葉が詰まった。どうしてこれほど、自分があの白いのを気にするのかが不思議だった。
 しかしおばさんは、俺の様子にちょっと笑って、「大丈夫よ」と答えた。
 「知空くんのおうちはここからどのくらいかかるのかしら?そんなに遠くない?」
 「あ…はい、たぶん、10分くらい…」
 「あら、近いわ。…あのね、知空くん」
 その後に続いたおばさんの言葉に、俺は素直に頷いたのだった。
 
 
 そして翌日朝、俺の足はあの夜歩いた道のりを歩いていた。
 晴天の中に、黒い傘がくるくると回っている。
 おはよう、と声をかけると、それは振り返った。
 
 『知空くん、いくちゃんのお友だちになってくれないかな』
 
 おばさんはそう言って、にこりと俺に笑った。それはまるで初めから、俺がその問いかけに頷くだろうと分かっていたような…
 いや、俺が「そうしたい」と無自覚に思っていたことを引きだしてくれたような、笑顔だった。
 
 振り返ったそれはやはり白い髪、白い顔、不釣り合いの、大きな色つきのゴーグル。
 正直、ちょっと異様だ。
 しかしにっこりと笑う笑顔に、なぜだか俺は安心したのだ。
 
 ☆
 
 そんな俺と白いのの間には、実はお互いにお互いの秘密を知っている。
 俺の秘密とは…まぁ、それほど深刻なものではないのだが…
 俺はあいつのその片鱗を見るたびに、いつも泡肌立つような不安に駆られるのだ。
 
 それを最初に見たあの日は、土砂降りの雨の日だった。
 
 「とらぁ?!」
 今日も今日とて、俺は白いのの行方を追っていた。
 彼はたびたび気配もなくふらりとどこかへ行ってしまう。そのたびに俺は奴を探すことになるのだ。
 いや…俺には探す理由などなかったはずだ。友だちになってねと言って頷いた、だからと言ってこうもたびたび捜索する必要などなかったはずだ。
 誰も俺のことなど探しに来ることが無かったように。
 「やまもとくん」
 「ぁあ?!」
 校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の途中、不意に声を掛けられた俺はいつものように振り返った。
 声をかけたのは、同じクラスの一人の女の子だった。
 
 俺と白いのが初めて一緒に登校したとき、一体何が起こったのかと如実に語る視線の嵐であった。
 なにせ、この俺が俺より小さい人間を連れて来たのだ。それもちゃんと手を引いてきたのだ、いつも誰かを殴るだけだった手で。
 
 「何だよ?」
 振り返った俺が尋ねると、その子は少し後退しながらおどおどとこちらを見る。
 その視線は嫌いだった。いつもだったらすぐに歩き出してしまっていたかもしれないけれど、そのころには俺は相手の様子を伺うくらいの構えが出来ていた。
 あの白いののスローペース(あるいは超絶なマイペース)に慣れてしまえば、このくらいの視線などどうということなどない。
 彼女は俺の視線を避けるように下を向きながらだったが、その唇は動いていた。
 「あ、あのね…とらくん、さっき外に出てっちゃったの…その、声をかけたんだけど…」
 声をかけても無駄な時がある。だいたいいつもそうだったような気がしないでもない。
 外か。連日の集中豪雨は、確か学校の裏山を崩していたと聞いた。
 嫌な予感しかしないので、まずそこから探そうと思った。
 「そうか、ありがとう」
 そう言って、歩き出そうとしたら再び声を掛けられた。一体何だというのだろうかと思ったら、2本、傘を差し出される。
 「かぜ、ひかないようにね」
 「……」
 俺は呆然と傘を受け取った。
 さっきとは違う言い方で、俺はありがとうと言った。
 
 「あおいちょうちょうを知っているかい?」
 ある日、白いのは唐突にそんなことを俺に言ってきた。
 バカにしてるのかと思って黙っていると、奴はそんなこと全く気にせずに先を続けた。
 「ちからには見えるかな?あおいちょうちょうが飛ぶんだよ。
 あおいちょうちょうの下にいるんだ。ちょうちょうは目印なんだよ。
 ちょうちょうがいたら、いかなくちゃね」
 全く意味が分からなかった。
 しかし時折、この白いのは「ちょうちょう」を追いかけて、その後にひどい熱を出すのだ。
 一体、その「ちょうちょう」の下に何がいるのだろうかと思っていた。
 この雨の日までは。
 
 「とら!」
 真っ先に向かった校舎裏手に、やはり白いのはいた。
 俺の手に2本傘があるということは、向こうは傘を持っていないのだ。文字通りずぶ濡れて白いのは立ちすくんでいる。
 「馬鹿かっ!お前死ぬぞ?!」
 もう一本の傘を開く時間も待てなかったので、俺は自分が差していた傘の下に白いのを入れた。
 いつも青白い顔をしているが、今は唇まで真っ青になっている。頬に触れてみると、ぎょっとするほど体温が低い。いつも俺より高いくらいなので、この低さにはこちらの寒気がするくらいだった。
 「ちから、ほら」
 白いのはやはり、そんな俺の様子はお構いなしに小さな手を上に上げて、ちょうど土砂が崩れた中腹辺りを指した。
 「あおいちょうちょう」
 え?と示された方を見やるが、そこには降り注ぐ雨と崩れた斜面が見えるだけだった。大体、こんな土砂降りの中に蝶々が飛んでいるはずがない。
 ここで、俺はようやく彼の言っている「ちょうちょう」が俺とは違う世界にあるものだという可能性に気付いた。
 「ちょうちょうの下だよ」
 そう言って、白いのは一点を見つめながら傘の下から歩き出した。
 俺は慌てて追いかける、と言っても俺の方がコンパスは大きいのですぐにおいついたが。
 土砂崩れを起こしている上に雨が降っているのだ。まともに考えたら一刻も早くここを立ち去るべきである、ことくらいは小さくても分かっていた。
 しかしこのとき、何故だか隣の白いのを止める気が起きなかった。
 白いのは先ほど示したあたりに来るとしゃがみこんで、地面を掘り返した。
 直感と言ってもいい。
 俺はこの下に埋まっているものがなんとなく分かってきていた。
 だが、俺もしゃがみこんで掘り始めた。小さな白い手が汚れていくのを見て、なんだかやらなければならないような気になったのだ。
 
 どのくらい掘っただろうか。それほど長い間掘ったという覚えはない。
 唐突に、土を抉ろうとした俺の手に何かが絡まった。
 「…っ?!」
 あまりのおぞましい感触に、俺は後ろに転倒しそうになった。
 尻もちをついた体勢の俺を、白いのはきょとんと眠そうな目で見やり、気付いたように再び掘り始めて……
 
 出てきたのは、長い髪の女の子の頭だった。
 「………おかえり」
 
 白いのはそう言って、あまりに優しい笑顔で頭を撫でたのだった。
 
 
 それから俺たちは、授業に出ていないことに気付いて探していた先生たちに見つかり、更に掘り起こされたものも見つかり、警察が呼ばれたところで他の生徒ともども家に帰された。
 そしてその後、殺人事件と発展したことによる休校期間中、とらはずっと熱を出していたらしい。
 
 
 
 正直、俺はこのとき、この白い生き物が青い蝶々と同じように、自分とは違う世界の生き物であるような気がして…
 
 とても恐ろしかった。
 
 
 
 
 08: この勝負に勝った方が今日一日、王様だ
 
 
 「ちぃからぁぁああああっっ!!」
 
 
 友人からの報告を受けて向かった廊下の先に幼馴染の姿を発見、すかさずダッシュで飛んだ。つまり飛び蹴りというやつだ。
 しかし悲しいかな。自重が自重なのであんまり衝撃は与えられなかったようだ。
 一応、相手と幼馴染を引き離すことには成功したのでよしとした。
 二人して転がった先で俺は一足早く起きあがり、幼馴染である山本の胸倉を掴んで口を開いた。
 俺たちの後ろでは、山本に殴られていた男子が顔を押さえて座り込んでいる。その手の間からはばたばたと血が垂れていた。
 「まだ加減が分からんってのか!お前やりすぎなんだよ!」
 「うるっさい!!向こうがとらのこと嫌な言い方してたんだから殴られて当然だろ!」
 怒りに我を忘れます、といった山本の双眸がぎらついて、そんなことを言いだす。
 それは知っている。さっきこの事態を教えてくれた友人に聞いた。
 だが、
 「向こうはもうゴメンナサイをしてたんだよ!そこで終わりなの!
 それ以上は何を理由にしようと単なる暴力なんだよ!!」
 胸倉を引っ張って近づいた双眸に向かって吠えると、は、としたように溢れていた怒気が引いた。
 そして次に浮かぶのは後悔だ。それも、大波が来る前に引く潮のような気配を伴って。
 俺は胸倉を離してその彼の肩をぽん、と叩いて笑った。
 「怒ってくれてありがとうな」
 そしてもう一度、呆然とする幼馴染の肩を叩いて立ち上がり、くるりと殴られていた学生を振り返った。
 他の生徒からティッシュを受け取ってとりあえずの応急処置をしていたらしいそいつは、振り返った俺にあからさまに体を強張らせた。
 とっくに保健室に行ってるものかと思ってたし、行っていたならば予定も変わっていたというのに。なんでまだここにいるんだろうこいつ。
 「すまん、市岐…助かった」
 震えるような声で…おそらく山本のせいというかおかげというかだろう…俺にそんなことを言うその生徒に、俺は「いや」と笑って返した。
 「まだ終ったと思うなよ?」
 「は?」
 「山本の分は終了したが俺のムカつきは収まってないわーーーっっ!!!」
 「ちょっ、言ってることちげぇぇぇぇっっ!!」
 うがぁぁっ!とそいつに向かって襲いかかる俺を、周りの生徒が慌てて止めに入った。特に、これ以上そいつに報復をしようと本気で思っているわけではないし、俺が暴れたところで大した被害など出ないので、それでよし。
 
 山本だけを加害者にするわけにはいかなかった。
 山本より暴論を振る必要があった。
 それで少しでも、彼へ向かう鋭い視線を逸らせるなら、多少の理不尽などどうともない。
 
 
 「明日から大丈夫なのか?」
 夕方、学校からの帰りに家に寄った山本が心配混じり呆れ混じりの表情で、ベッドに転がる俺を見下ろした。
 昼間の廊下での出来事が原因であるのかは定かではないが、授業が終わりきる前に熱を出した俺は一足先に帰宅していた。
 「問題ないね。それほど高い熱じゃないし、多分、明日の朝にまでは引いているよ」
 嘘ではない。明日からの林間学校に備えての早退であっただけだ。
 山本はまだ眉根を寄せたまま、ベッドわきに座り込んだ。そこにクッションあるよ、と布団の中から腕を出して示すと、必要ない、と言って腕を押し込められた。
 「……昼間はありがとうな。助かった」
 「どういたしまして」
 小さな声のお礼に、俺は同じくらい小さく笑って返した。
 山本のお礼には、いつも後悔が混ざっている。
 「とらのことでケンカしちゃうと、とらまで巻き込んじゃうのな」
 ぽつりと山本がそんなことを言うので、俺は布団の中で肩を竦めた。
 「うん。まあ当事者になっちゃうからね。
 しかし俺のことだし、知空が怒るのは仕方ないことじゃね?逆に、俺のことを悪く言われて、同じ場所で知空が笑ってたら泣くぞ」
 そう言うと、山本はやっと可笑しげに笑う。だがその笑顔はまだぎこちない。
 平気だ、問題ない。慣れてる。だから、言わなくてはね。
 「大体、昔はドコドコとどこでも爆発していたけど、今の知空は起爆剤が無いと爆発はしないんだし、その起爆剤もほぼ理由が絞れるんだからそれほど深刻な問題ではないよ。
 けれどね、知空」
 ごろ、と寝返りを打って山本の方へ向き直った。
 怪訝そうな山本の顔がちゃんと見える。
 「俺のことを悪く言う人間なんて、学校の外にだっていくらでもいるよ。
 もしこのままずっと、誰かの言葉一つ一つに反応していたら知空の心の方がもたなくなってしまう。
 だから、覚悟をして。あるいは、諦めて」
 じ、と山本の目を見て言うことに、彼はひどく驚いたようだ。驚いたというよりは、困惑した、と言った方がいいかもしれない。
 しかし、そいういうことだ。
 自分がどうあがいたって他の健常者とは目に見えて異なること、そしてそれがプラスの意味を持つことが無いことはよく分かっているし、そういう特徴を持つ人間へ向けられる視線や意思に優しいものが含まれることは滅多にないということも、やはりよく分かる。
 その優しいものは個人の努力で割合を増やせることはあっても、世界には個人など簡単に圧殺出来るくらいの悪意が存在している。
 それに逐一凹んでいたり怒っていたりしても無意味であるのだ。個人ではあまりに力不足であるのだ。
 だから俺は諦めた。というと、ちょっと悔しいものがあるので、「気にしないことにした」のだ。
 目の前の幼馴染はおそらく、優しいが故にその諦観というものが出来ていないというか…そういう対処があることすら知らなかったことだろう。
 
 返答に困っているような山本へ、俺は軽く笑って言った。
 「…なんて言ってもな。すぐにそうしろ、なんて出来ないよな。
 さいわい、ふつーに進学すれば後…えーと、8年半くらいは"学校"て中で過ごせるんだ。それだけあれば、今俺が言った方法でも、これから先、知空が見つけるかもしれない対応でも何かしらそれに対する手段てもんを講じれるはずだよ。
 ただ、覚えといて、てことで」
 おけー?と知空を覗きこむと、大量データを処理しているパソコンのような反応の遅さで頷いた。
 よく整理しといてください。
 
 考え込んでいる山本の様子をニヤニヤと眺めていると、小さく部屋の扉がノックされた。育斗が俺の解熱剤を持ってきたらしい。
 山本は「とりあえず帰る。明日は無理するなよ」と言い残して、弟と入れ換わるように部屋を出て行った。
 
 
 翌朝はすこぶる快晴で、熱も外出許可ラインを余裕を保った値で弾き出し、めでたく無事に中学の林間学校には参加できることになった。(小学校の時は完全に熱を出してアウトだったのだ)
 
 「生きてるか?」
 2日目の登山、割と短いスパンで山本が俺の生存確認をしてくる。
 そんなに俺は瀕死なのか。
 「生きてる…」
 しかし幼馴染に返した自分の返答はびっくりするくらいか細かった。これは確認したくもなるかもしれない。
 さすがに山本も足を止め、俺の額に手を当てた。
 「…先生呼んでくる。そこで休んでて」
 「え、ちょっと待っ…!」
 先生を呼んでくるということはつまり、ここで…「アウト」
 容赦の欠片もなく言い放った山本を、俺は止めることは出来なかった。
 
 「いくちゃん、具合悪くなったらちゃんと知空くんに言ってね?」
 1日前、玄関先で見送る母が人差し指を立てて言い聞かせるように俺に言った。
 うん、と頷くものの、そこって先生じゃなくてまず知空に言うんだな、と妙な納得をしてしまった。
 母の山本への信頼は、俺と同じくらい厚いものであると思う。
 それを山本は自覚している。だから、こういうときの判断は俺の意向というものを綺麗に無視して可能な限りの安全を取ろうとする。
 それは間違いではなかった。悔しいくらいに間違いではなかったのだ。
 
 山本の後ろ姿が見えなくなってしまうと、俺はやれやれとため息をついて座り込んだ。
 きっと夜には熱を出すことだろう。そうすると、今夜のキャンプファイヤーには完全に不参加である。
 小学校の時もあの夜には参加できなかっただけに、今回は問題ないと思っていただけに、落胆は大きい。
 「………?」
 地味に凹んでいると、不意に何か聞こえた気がした。
 季節は初夏。蝉はまだ出てきてはいないものの、そこここで虫や鳥の声が聞こえているのだが…
 その音ではない。もっと異質で、もっと馴染みのある音だった。
 俺は立ちあがって辺りを見回した。方向は分かっている。不思議なことであると思うが、その音が聞こえる辺りの風景もなんとなく分かっている。
 しかしそこへ行ける道はあるだろうか。
 知空が先生を呼びに行っていることもすっかり失念して、そこへ下る道を探し始めた。
 「…ここから行けるかな…」
 やがて見つけた道は正規の登山ルートではなく、獣道のような小路であった。
 小路をしばらく下って行くと沢に出た。上流と下流をきょろきょろと見ると、上流の方に鉄橋が見えた。道路が走っているらしい。登山道の入り口までバスで走った道だろうか。
 日差しが差していたので、俺は背負っていた荷物から雨傘を取りだして開いた。
 音は上流から聞こえていた。脳裏に広がる風景も、あの橋が見えていた。しかし橋よりだいぶ下流ではあるけれど。
 「……」
 やがてとある場所で足を止め、水面を覗きこむ。この辺なのだ。
 俺はジャージの裾をまくり、靴を脱いで恐る恐ると水の中へ入った。初夏の沢の水は清廉として冷たい。
 川というものは、俺にとって怖いものであった。理由が分からないところが更に恐ろしい。小さい時にでも溺れたのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、一つの石の下に手を入れる。
 大きな石だ。岩と表現してもいいかもしれない。
 突っ込んだ腕のジャージが濡れそうだったので、ぐいぐいと更に捲くる。
 この辺なんだけどな。
 水中を手探りで彷徨っていると、唐突にその手を『掴まれた』。
 「?!」
 思わず驚いて手を引こうとするが、それは上にある岩のようにびくともせずしっかりと俺の手を握っている。そして脳裏には、白くて綺麗な、柔らかいベージュの色のマニュキアをした女の人の手が浮かんでいた。
 このまま手を離さないなら出るとこに出ようと思っていたのだが、意外にあっさりとその手は俺の手を離した。
 何かを握らせて。
 「……?」
 引き抜いた手には、錆びついたネックレスがあった。

 「とらっ!!」
 と、横手から怒鳴り声が聞こえて思わず身体が跳ねる。心臓に悪い。
 振り向くと俺が辿ってきた小路から知空が降りてきていた。よくその道が分かったものだな、犬か、嗅覚か。
 「知空、見てくれ、こんなもの」
 「うるさいっ!!俺がなんて言ったか覚えてるか?!」
 「が、あった」と言おうとしたところで知空に胸倉を掴み上げられてしまい、俺はその先を続けることが出来なかった。見るからに怒っている。見なくても怒っている。
 「熱が上がってるってのに水遊びってお前自殺か!!」
 そんなまさか。
 と突っ込みたいところだがここで突っ込んではそれこそ自殺行為というものである。
 何と言って収めようかと(とりあえず謝罪をしておいた方がよいということは分かっているものの)思案していると、後ろから続いて先生が降りてくるのが見えた。ホッと俺が安心するのが分かったのだろう、知空が後ろを振り返った。

 とはいえ、先生からもかなりきつくお叱りを受けた俺は迷子(逃走)防止と受け取っていいだろう、知空に背負われて山道を降りて行った。
 「なぁ、知空。これ」
 「ん?」
 俺は今日の成果をどうしても幼馴染に見せたくて、さっき拾った指輪を知空の目の前にぶら下げた。
 足を止めて、知空が首を傾げる
 「…何それ?」
 「さっき、川で拾ったんだ」
 拾ったというよりは受け取ったと言った方がよかったのだが、そんなこと言ってはますますこの幼馴染の疲労が重なるだけだろう。
 「お前、それを拾いに川に行った…のか?」
 「え、うん、まぁ」
 しかし、彼の疲労は俺が慮らなくても既に十分蓄積されているようだった。
 「……捨てていい?」
 「断固拒否」
 掴もうとした知空の手から逃れ、俺は指輪をポケットにしまった。
 知空の盛大なため息が聞こえた。
  

まだ未完成ですみません。。。orz