その日は、夕暮れから激しい雷雨が山に降り注いでおりました。



『繋いだのは誰の手?』





鬼の祭りと呼ばれる大祭は、幾寅からひとおに様が『浮かび上がって』から最後の準備が始まり、8日の太陽が落ちてから粛々と行われました。
祝祭は9日午前3時を回って例外なく閉幕し、私たちはひとおに様とともに右家のおばあ様の屋敷に帰宅したのでございます。
幾乃といとこたちは7日からの準備でほとほと疲れているのでしょう、夕刻を過ぎた今もまだ、仲良く居間のソファで眠っております。一度、布団を敷くからそちらで寝るようにと声をかけたのですが、揃って移動するのが面倒だと言って倒れるように眠り込んでしまいました。
せめて起きたときに体が痛くないようにと枕を添えましたが、おそらくさほどの効果はないでしょう。大祭のある年には恒例の光景となっております。
こういうとき、幾寅の誕生日が夏でよかったと思うのです。(少なくとも風邪を引く心配はございません)


子どもたちはまだもう少し、起きるまでに時間があるでしょう。
私は彼女たちが起きたらすぐに食事ができるよう、夕飯の準備をしようと台所へ向かいました。
ふと縁側を見やれば、白い二つの影が見えました。
おばあ様と幾寅…いえ、『今』は巫祝王とひとおに様、と呼ぶのが正解でしょう。
二人して庭の方に体を向けて、ちょこんと座るようにしている後ろ姿は、まるでお婆さんと孫そのもののように見えて、私は不思議と小さな笑いがこぼれてしまったのでございます。
すると、その小さな気配ですら感じ取ったのか、二人が私を振り返られました。
巫祝王がにこりと笑われました。どうやら私の勘違いだったようで、既に意識は『おばあ様』のようでございます。
幾寅の瞳はまだ黒いままで、表情はすこんと抜け落ちております。以前、主人から聞いた話では、一重にひとおにと括りましてもそれには多くの同胞の魂を抱えているのだそうです。内部ではかなしみや、歓喜や、憎悪や、様々な思考が渦巻き、統合することもなく混沌としているので、最終的に表に出てくる表情は虚空と化すと言います。

「ひとおに様、あまり日を浴びてはあなたの体に毒でございます」
ひとおに様の傍まで寄り、腰をかがめると黒い瞳が私を見上げられました。いつも見慣れているはずのこの双眸に、私はこのとき何故か、とても懐かしい気持ちを抱いたのです。
空は夕立に曇っておりましたが、厚い雲の隙間から夕暮れの朱が見え始めておりました。昏きを属性とするひとおに様は、幾寅でいる時よりも明るさを避けるのでございますが、どうしてか、このときは傘もささずに縁側にお座りになってございました。
おばあ様もそれをご存知のはずなのですが…
「さぁ、参りましょう」
私がひとおに様の手を取ると、存外素直にお立ちになり、私の後を付いて来られました。

主人は、この大祭の時期になるとひどく思いつめた表情で幾寅とひとおに様を見るのですが、主人がこの昏いものに感じる何か…おそらくそれは禍々しいもの…を、私はそれほど感じないのです。
それどころか、時折、さきほどのようにとても懐かしいような、暖かいような、…そんな気配を感じるのでございます。
だから私は、大祭のときのみに浮かび上がるひとおに様にも、気持ちの上では自分の子どもたち同様の振る舞いをして差し上げたいのです。
…ということを以前、主人に申したところ、とても悲痛な表情をされたので、それ以来誰にもこのことを話してはおりませんが…
せめて、この期間夢も見ずに眠っているだろう幾寅が、感情を乱したひとおに様に引っ張られることのないように、とも思いながら。


ふと、私はひとおに様が縁側にお座りになっていた理由が分かったような気がしました。
今年が終われば次に大祭がある年は、後6年後…幾寅が29歳の年になります。きっとひとおに様は、それまでの間外の景色を見れないことがお分かりになって、たくさんの同胞の記憶に景色を埋めようとなさっていたのでしょう。おばあ様が黙認していた理由にも納得がいきます。
もしかしたら私は、余計なことをしてしまったのではと不安になったときでした。
ひとおに様が、繋いでいた私の手をく、と強く握りました。

「いつでも傍にいるよ」

小さくそう呟いて、ひとおに様は私の横を通り過ぎて行きました。
途端、私の両目からはふわりと涙が溢れてきてしまったのです。
そっと離された手が、なぜだかとても寂しくてたまらなくなってしまったのです。

私は確かに、確かに聞いたのです。
ひとおに様が通り過ぎる間際に、「わすれないでね」と呟いたのを。
その瞬間、私の胸に果てない悲しさが湧き出したのでございます。
何か…何かとても大切な物を、私は失っているのだと、どうしてか分かってしまったのです。しかしそれが何か、どうしても思い出せないのです。
あぁ何故でしょうか。

私には、それを見越しても尚、「わすれないで」と言ったように思えてならないのです。
あまりに切実な言葉に思えてならないのです。


彼の歩いて行く後ろ姿を追うこともできず、私はただただ涙が流れるに任せるばかりでございました。

すべてを分かってる上で、でも彼にだって諦めきれないものがあってもいいと思います。