「おばさん、とら見つかったよ。俺迎えに行ってくるわ」
そう言って、お兄ちゃんは車で出て行ってしまった。
7月26日。忌々しい大祭からちょうど2週間前の日、いくちゃんが帰省するはずの日。
待てども待てどもあの跡目ちゃんは帰ってこず、おばさんは青い顔で、おじさんは難しい顔で、幾乃ちゃんは相変わらず綺麗に無表情。
紗希はといえば、いくちゃんが帰ってこないことには何にもすることがないから、おうちのにゃーさんたちとごろごろまったりしてみたわ。
そのうちにお兄ちゃんがいくちゃんを抱えて帰ってきたのを見て、「あぁやはり帰ってきてしまったのね」となんだかとてもかわいそうな気持になりました。
だってそうじゃない?いくちゃんが、このままどこか誰もいくちゃんのことを知らない所へ行けたら、きっといくちゃんも紗希もお兄ちゃんも幾乃ちゃんも、きっときっと幸せになれるんじゃないかしら。
もっとも、『おうち』は絶対に、いくちゃんを逃しはしないだろうけれど。

かわいそうないくちゃん。
けれど恐らく、いちばん哀れなのは紗希なの。
だっていくちゃんはまだ『意味』があるものね。


いつも高い熱を出すと「痛い」っていくちゃんが呻くのを紗希は知っているの。いくちゃんは紗希が横で聞いていたなんてこと知らないでしょうけど。
6年前までは、そこに一緒に育斗がいたわ。
育斗はとても優しいから、呻くいくちゃんの横にずっと座って看てあげていた。
だから紗希は、そこにも『意味』を持てずにいたの。いくちゃんの横には育斗がいれば十分だったもの。
いくちゃんだっていつも育斗のことばかりだったし、それは今も変わらないみたいだし。紗希って一体何なのかしら。

眠るいくちゃんはいつもの痛みも感じないくらい深く『眠らされて』いるようで、横にいる紗希にとっては心安らかなのか心苦しいのか微妙なところ。普通の熱じゃないから、看病の意味もないものね。

「あなたがいないとカンペキに紗希の意味がないのに、あなたがいても紗希に意味を持たせてくれないのね、いくちゃん」

なのに紗希はこれからの未来ずっといくちゃんに縛られたままなの。
それってとてもリフジンね。
かわいそうな紗希。
だから、意味を持つためにあなたの未来を犠牲にしてもいいじゃない?

だってわたしは『市岐』の血族だもの。
人を食らって生き続けるモノを祭り、他者を踏みにじって繁栄を続けてきた一族の末裔だもの。
これも性でしょう?


「おやすみなさい、心から憎らしい人」
夢も見ないくらい深い眠りのいくちゃんの頬をそっと撫でるの。いつも紗希が飛び付くと顔をしかめるから、これくらいはいいわよね。
あの選択を後悔なんてしてないわ。そこに優しい未来があることを知っているもの。
だから、
「どうしていくちゃんなのかしら」
どうして紗希なのかしら
なんて、紗希は考えちゃいけないね。

いくちゃんがあの時の選択を翻すことのないように、紗希はズルい女になってみせるわ。
それが紗希の幸せにつながるなら、いくらだっていくちゃんに失望されても構わないの。
それだけの覚悟なのよ。だから、
「その紗希だけは、無意味なものにしないでね」



わたしとあなたの越えられないほにゃらら




男の子ってとっても意志薄弱な生き物だから、紗希はちょっと心配なのよ、いくちゃん。

紗希の不安は的中しましたね(笑)