「お帰りなさい、幾ちゃん」
 「…なんで姉ちゃんはいつも俺より先に家にいるのか聞いてもいいかな」
 
 あのあと、結局早退して家に帰って来た俺を出迎えたのは、今頃はまだ大学で授業を受けているはずの姉、幾乃。
 腕を組んで仁王立ちな姉ちゃんに、俺は控えめな質問をしてみたら、すんなりと返事が返ってきた。
 「幾ちゃんが倒れて授業に出てない、て聞いたから帰ってくるのかな、て思って」
 「誰に聞いたの。俺の友だち?」
 保健室に来ていた友人がわざわざ二度も大学にいる姉ちゃんに知らせに行くとは考えにくい。
 案の定、姉ちゃんは首を振る。
 「左家の偵察さんに」
 「…」
 それは…軽く俺が監視されてるって認識でいいんだな姉よ…?
 
 『市岐』はこの国において古く魔の付く家系である。
 だが、その実態は常に幻であり、魔の道を歩く者たちの中でも存在を疑われるような隠された存在であった。
 『市岐』の傍らには『右家』と『左家』が鎮座し、主君にあたる『市岐』を守護する役割を果たしている…というのが、その曖昧な認識の中での「通説」だ。
 だが、これこそが『市岐』の張った目くらましであることを知る者は、当事者たちしかいないだろう。
 
 『市岐』など存在しない。
 あるのはただ、うつろうことを宿命としたひとつの幸いでない力のみ。
 
 その『跡目』が、市岐幾寅、つまり俺というわけだ。
 「具合はどうなの。熱はあるの」
 「…ないよ。めんどいから帰ってきただけだし」
 「意外。ともだちの部屋にでも泊まってくるかと思ったわ。」
 本当はそうしたかったのだけど。
 「そうすることもできないくらいの」
 そこまで言いかけた姉を、俺は力いっぱい睨んだ。それ以上言うなよ。原因なんて言われなくても分かってるんだ。
 姉ちゃんは俺の視線を流して、呆れたように溜息をついた。
 「着替えて大人しく寝てなさい。母さんに消化のいいものを頼んでくるわ」
 そう言って、姉ちゃんは家の奥へと歩いて行った。
 部屋に戻って鞄を放り投げると、もう立っていることも座っていることも辛くて、重力に従ってベッドに転がる。
 眼鏡を外して薄ベージュの天井を見上げていたが、やがて瞼さえ重くなって、ゆっくりと目を閉じた。
 
 
 
 一年前の桜のころ、弟は交通事故で死んだ。
 ひき逃げであったと聞く。犯人はいまだ捕まらず、依然逃走中。
 弟は病院に担がれたものの、数時間後に息を引き取ったのだそうだ。
 
 なぜ俺が伝聞の形で話すかというと、俺はこのとき学校行事で家にいなかったからだ。
 ひさしぶりの遠出と、弟へのお土産を片手に意気揚々と帰って来た俺を、玄関で姉ちゃんは真っ先にグーで殴った。
 
 俺にしてみれば、ただ学校からの帰宅だったから、なんで姉に殴られるのか全く理解不能だった。というかあれは完全に姉の行き場の無い感情をぶつけられたのだが。
 弟が死んだのだ、と言われても、質の悪い冗談にしか聞こえなかった。
 家には葬式の準備すら、線香の香りすら漂ってはいなかったから。
 しかし、この姉の常にない取り乱し方と、白い顔を真っ赤に染めて泣きはらした双眸が、俺に真実を叩きつけていた。
 
 「…嘘だ」
 「嘘じゃない!お前もなかったことにするのか?!」
 「…?」
 一瞬、姉ちゃんの言っていることが分からなかった。
 なにが、なかったことなんだ?
 俺は猛烈に嫌な予感がして、玄関の姉を押しのけて弟の部屋に駆け込んだ。
 
 そこは、3日前まで確実に存在していた人間の痕跡を、跡形もなくぬぐい去ったような空き部屋になりはてていた。
 
 「とらちゃん、どうしたの?」
 場違いなほど穏やかな声がして、俺はびっくりして振り返った。
 「あなた携帯電話忘れてったでしょ?いくちゃんが困ってたわよ?さっきもそれで喧嘩してたんでしょ」
 くすくすと苦笑いしているのは、母さんだった。
 
 なんだその反応は。そうじゃないだろう、母さんがこの場で言うのは、そういう話じゃないだろう。
 
 だが、この部屋の前に立っている母の顔には、実の息子を亡くした悲しみの欠片もない。
 何を言ったらいいのかわからない。
 戸惑いに戸惑って沈黙している俺を、母さんも不思議そうな顔をして首をかしげていた。
 「とら」
 その不可思議な空間に、何かすべてを掴んでいるような落ち着いた声音が滑り込んできた。
 「ちょっと…こちらへ来なさい」
 父の暗く沈んだ目こそ、今の俺が求めていたものだというのはあまりに倒錯的だなと、俺こそ場違いに考えていた。
 
 「…どういうことだ」
 父さんは静かに、しかし重い空気で俺を書斎に通した。
 机に座る父さんを、俺は筋違いだとわかってはいても、敵意をもって睨みつけてしまう。
 「……育斗は、『右家』に消されたよ」
 「なんで?!」
 身内に殺されたということは、あの弟の部屋を見た瞬間に分かった。
 ………これは『市岐』の仕業だ、と。
 しかしなぜなのか。弟は「家」に殺されるような要素など一つも持っていない。
 それどころか、「魔」の力を強く持っていた弟は、将来跡目の補佐を…それこそ『右家』を務めるのに相応しいとさえ期待されていたはずだ。
 眼鏡越しに、父が苦渋の表情をしていることがうかがえた。彼だって辛いのは分かっている。
 俺と違って、弟は「父」と「母」の「実子」なのだから。
 しかし父は、淡々とその事実を告げた。
 
 「育斗が、お前に替わって跡目を継ごうとしたからだ」
 
 ありえない。
 それが、俺のすべての答えだった。
 「嘘だ」
 「嘘じゃない。俺もあいつに相談されたんだ。
 きちんと力をつけたら、自分でも後を継げるのか、てな」
 「!」
 「そんなバカなマネはよせと言ったのに…」
 父さんが頭を抱えた。消えるような声だった。
 姉ちゃんの涙と一緒だ。
 過ぎてしまった事実を、俺が立ち会えなかった現実を、それは体現していた。
 なぜ跡目を継ごうとしたのだろうか…?
 
 俺は、弟の謎の行動に頭を麻痺させながらも、もう一つの疑問を聞いた。
 「…母さんは」
 「見ての通りだ。俺とお前と、幾乃と、他の数人の『市岐』の人間を除いて、その中から育斗の存在を消されている。
 記録からも、記憶からも」
 「……ひどい」
 完全に『存在を消された』のだ、弟は。母親の記憶からも…
 こんなものの跡を継ごうとすることが、そんなに罪の重いことなのか?
 「『右家』はしきたりを重んじる。跡目として選ばれた者以外の継承を絶対に認めない。それを阻もうとする者も」
 「育斗が阻もうとしてたって?」
 ひくり、と頬がひきつった。それこそありえない。
 弟はいつだって優しく微笑んで隣にいてくれた。俺が熱で寝込んでいるときも、時間を見つけては傍で看てくれていた。
 そういう弟が、俺でも他の誰でも、その道を「阻む」ということをするとは思えない。
 あるとすれば…
 「『右家』が勝手にそう思ってるだけだ…!育斗は俺の替わりに跡目を継ごうなんてしない!」
 「それでも…奴らにはそれが真実なんだよ、とら」
 「とうさん!!」
 「よく聞きなさい、幾寅」
 淡々と告ぐ父にどうしようもない怒りを感じながら、しかしその静けさに俺は気押された。
 そして父は、この先俺が一生背負っていかなくてはならない言葉を、やはり静かに告げるのだった。
 
 「この『家』の行動すべてが、お前に向けての言葉なのだよ。
 育斗が死んだのも、本当はそこに育斗の都合などない。
 すべてお前が、他のだれでもないお前が継ぐのだという言葉だ。
 この『家』は、跡目の…いや、跡目の中の『ひとおに』の為に存在するんだ。
 
 覚えておきなさい」
 
 「………」
 唐突に。
 その重さに。
 そのばかばかしくも恐ろしい思想に。
 胃の中のものが逆流してきて、俺は何か言いたかった言葉とともに口を押えて、書斎を飛び出した。
 
 悲しみなのか怒りなのか全く分からないけれども……無性に涙が溢れて来て、止まらなかった。

まだこのときは誰かのために泣けたのに