「いくちゃん生きてるー?」
 「……その呼び方やめろって何回言わすのお前…」
 
 今日も今日とて夏の熱気と言うか光にやられた俺は、保健室のベッドと仲良くしていた。
 夏は好きな季節だけど、どうにも想いが一方通行で寂しいを通り越して痛い時期である。
 「お、吠えられるくらいには回復してきたか?
 さっきは何言っても総無視だったからな」
 「無視なんかしてねーよ。ちゃんと返事してたろ…?」
 「してねーって!すげー勢いで無視だったよ、肩貸してる横で無視だったじゃねーかよ!」
 「人聞きわりーな…返事してたって。瞬き一つでハイ、二つでイイエって返してたのに…」
 「事前に確認してくれませんかね?!」
 どこぞの金融機関のCMみたいな突っ込みをしてくるのは、幼馴染の山本。
 『市岐』とは全く関係のない人間だというのに、なぜか偶然にも小学校から高校までずっと腐れ縁で横にいる存在だ。
 俺とは違って長身の、均整の取れた体格をしている彼は、陸上部の副部長でもある健康優良児だ。
 
 姉ちゃんの容赦ない追撃を受けて、俺は「無駄な抵抗」を諦めた。
 どうやらこれでは何も解決はしないようだったからだ。
 別に、姉ちゃんが言うように『ひとおに』を否定するためだけに抵抗をしていたわけではなかった。
 『ひとおに』は、それだけでは存在を維持できないことを俺は知っている。だから、追い出すことで消滅できないのかなと思って『拒否』していたわけなのだが…
 どうも無理臭い。しかも、姉ちゃんが言っていたことも最もであった。
 かなりの非効率だ。
 
 「5限目はどうすんだ?あと一時間だし、無理しねーで帰っちまえよ」
 枕もとに腰をかけて、山本が俺の額に手を当てた。
 「…お前っていつまでたっても子ども体温だな」
 「恒常的に熱い男だと言ってくれ」
 やんわりと彼の手をのかして冗談めかしてみたけれど、俺はなぜ自分の体温が常に高めなのか、なんとなく予想がついていた。
 「無駄な抵抗」を、無意識的にしているからだ。自分の体は、『ひとおに』を異物と認識しており、常に排除の対象としているのだ。おそらく。
 「出るよ。由良ちゃんの授業だかんな」
 「せんせー!市岐が色ボケてまーす!」
 仕切りのカーテン越しに山本が声をあげると、「それは結構」と返事が返ってきた。
 「元気なら出てきてほしいけど、無理はしないでね?
 君一人の体ではないんだから」
 「それってこういうときにつかわねーって、センセ!」
 あはは、と俺と山本が笑うと、カーテンの向こうで先生も笑っているようだった。
 「それじゃ、そろそろ行かねーと遅刻すんぞ」
 よ、とベッドから立ち上がって、山本が背を伸ばす。「おけ」と答えて、俺はぬくんだ布団から抜け出した。
 
 
 初夏だ。
 まだ真夏の時期より全然蒸し暑くはないけれど、この時期、太陽の光が劇的に強くなってくると思うのは、俺の気にしすぎというものだろうか。
 そういえば、去年は育斗と海に行ったなと思い出した。俺は海には入れないから、一緒に山本や育斗の友人を誘って遊びに行ったのだった。
 「今年も海に行きたいなー」
 ぐっ、と背中を伸ばして言い出した山本の言葉に、俺は思わず振り返った。
 「え、何…?なんか変なこと言ったか、俺」
 その勢いが良すぎたのか、山本がびっくりした顔で俺を見た。
 俺はまじまじと彼の顔を見つめて、なにか、そう……何か期待を込めて聞いてみた。
 「山本…去年行ったときのメンバ、覚えてるか?」
 「はぁ?おいおーい、いくちゃーん、俺の記憶力ためしてーの?
 覚えてるって、俺だろ?とらだろ?それから……」
 と、山本はその後に育斗の友人の名前を挙げて、
 「…だったよな、確か」
 自信満々に、育斗の名前を除外した。
 なるほど…そういう仕組みなのか…
 どうだと言わんばかりの彼の得意面を見ているうちに、俺の中で何か黒いどろどろしたものが生成されていた。
 「その、俺以外の面子はどうやって集めたんだよ。そいつら、5こ下だって気づいてるか?」
 唐突な俺の質問に、山本はきょとんとした。
 「はぁ?何言ってんだ、とら。
 たまたま同じ地元の奴らがいたから、一緒に遊んだだけだろ?」
 「………」
 
 これが、「存在が消える」ということなのかと…思った。
 こうやって、何も不自然なものがないように、各個人でつじつまが合わされてしまうのだ。
 それはおそらく魔術的な効果と……人が持ち合わせた記憶の防衛本能のようなものの相乗効果。
 ひどく嫌らしい術だと思った。
 
 俺は育斗を覚えていない山本にとても苛立って、詰め寄ってその存在を開いて見せようとして、
 「っと…!?」
 突然突き飛ばされる勢いで誰かがぶつかってきた。
 すみません、とその勢いとは裏腹の静かな声で謝って、そいつはそのまま廊下の奥に消えていった。
 「ちょ、…きをつけろよなー?!」
 振りかえって俺の代わりに言葉を投げつけた山本が、「だいじょうぶか?」と振り返るが……
 俺は手に持った写真から、目を離せずにいた。
 「……とら…?」
 山本の心配げな声が、遠くから聞こえた。
 
 さっきぶつかった奴から、一枚の写真を手に押し込められた。
 写真には……
 
 仰向けの右肩から先、服が裂かれた白い腕、青紫の斑点の散らばりが
 
 「……っっ」
 「お、おい、とら?!」
 唐突にこみあげたものの熱さを感じて、俺はトイレに向かって走り出した。
 洗面台に手をついて、喉元の熱を吐き出す。
 
 
 なんだ?なんでだ?
 なんで今さら「その写真」が出てくるんだ?
 どうして今のタイミングなんだ…?!
 
 
 喉がひりひりと痛む。
 あの写真は、間違いなく弟の腕だった。根拠なんかなかったが、そうとしか思えなかった。
 なんでそんなものが、写真として残っているのだろうか。わざわざ撮ったというのか。
 一体何のために?!
 「とら」
 はっ、と振り返ると、複雑な顔をした山本が入口に立っていた。
 急に走り出して吐いている自分を心配してるんだろう。俺は努めて明るい声を出そうとして、…次の彼のセリフに固まった。
 
 「…さっきの写真、なんだ?」
 
 ……見られたのか…
 自分の迂闊さに、心底後悔した。
 「作りものか?なんであんなもの、お前に」
 言ってしまおうか…、と思いついた。山本は信じてはくれないだろうけど…
 なにより、これが最大の好機で、あんなに山本に懐いていた育斗を忘れている山本なんて見ていたくなかった。
 「あれは…」
 言いかけて、――――唐突に全身が怖気立った。
 
 山本の肩越し。
 廊下の曲がり角。
 さっきの男が静かな殺意を持って、こちらを見ていた。
 いや、正確に言おう。
 
 山本を見ているのだ。
 
 その瞬間、あの写真の真意が明確に理解できてしまった。
 
 「………いや、なんでも…ない」
 気づいた事実に呆然と呟くと、その様子に気づいた山本が俺の視線を追って後ろを振り向くが、それよりわずかに早く曲がり角に身を隠した男の姿を、山本は見ることができなかったろう。
 不思議そうに首を傾げる山本が俺を振り返り、「大丈夫か」と声をかけた。
 「…本当になんでもないのか?誰かから嫌がらせとかされてねぇ?」
 心底心配げな表情で、彼は頭一つ分ほど下にある俺の顔を覗き込んだ。
 首を振る。それしか返せない。
 「ん、ホントなんでもなねーよ!どっかの悪ふざけだろ。俺こゆのあんま得意じゃねーしさ」
 なんだかよく分かんない理由をつけて、とにかく勢いだけでケリをつけた。
 幸いに彼は、一般的に『鈍い』人間なので、そうか?と言いながら終りにしてくれた。
 
 
 恐ろしいことは。
 あの一瞬で、俺はこの優しい人間を失うところであったということだ。
 あのとき、俺が山本に育斗のことを話していたら、山本が育斗のことを思い出そうが出すまいが、あの男は山本を消していただろう。
 そして男にとっては、そんな二択などどうでもいいことであるのだ。
 肝心なのは。
 そうすることによって俺に『禁句』の重要性を知らしめることだ。
 「育斗のことについて触れるな」と。
 その記憶を掘り起こすような行動をするなと。
 
 
 やってられるか。
 育斗の件についてはもちろん、山本は『市岐』とは全く関係ない人間だ。
 『市岐』の者が手を出すなんて、絶対に許さない。
 
 傍らを、俺の歩調に合わせて歩く山本の横顔を見やりながら、俺は『右家』の「ばあちゃん」の顔を思い浮かべていた。

視線の先にある真意