『市岐』の「跡目」が、決してこの『三家』を統括しているわけではない。
その家の前に立ったとき、やや古臭い大きな家、という以上の押し付けられるような圧迫を感じて、俺は胸の辺りの服を握りしめた。
家の後ろにそびえる山そのものが押し迫ってきているような、そんな威圧感が、この家には存在していた。
深呼吸一つ、敷居をまたいで『領域』へ踏み入ると、ざり、と靴の裏に不快感を覚える。ただの玉砂利にすぎないのだが、これすらも不穏な気配を帯びているようだ。
とにかく、この『家』のすべてが、俺にとっては理由もなく嫌悪すべきものであるのだ。
この身の内の、『ひとおに』と同じように。
やがてすりガラスの玄関の前まで来て、そこでまた深呼吸をして戸に手をかけて、引く前にさっと開いた。「お待ちしておりました」
戸のすぐ内側に、目の細い女が立っていた。
すりガラスだ。向こう側にいれば気づいたはずだというのに。
目がつっているせいで笑っているように見えるのに、実はまったくの無表情と言う矛盾した表情の女に、俺は驚いて言葉がつなげずにいた。
それに構わず、女は半歩身を引いて、中へと促す。
「奥で巫祝王がお待ちです、彝器」
巫祝王とは、古代中国において神事を司った王のことだ。
神との交信を可能とした唯一の人物である。『市岐』においてもそれは大体合致しているようだ。
彝器とは、やはり古代中国において神への食物を入れるための神聖な器のことである。
『市岐』においては、『ひとおに』を宿した「跡目」の別称。
そう、『市岐』の「跡目」は、単なるイレモノに過ぎないのだ。
重要なのはこの中にある『ひとおに』であって、「跡目」はその力を保持するための、繋いでいくための器。
真にこの『三家』を統べるものは、この巫祝王である。
「「相当、頭に来ているようだな、彝器」」
霞んだ御簾の向こう、半分うなだれるように座っているのは、小さな老婦だ。
しかしその声は、地の底から響いてくるような低温、低音。目の前のばあちゃんから発せられるとは思えない声音だ。
これが、巫祝王。
「「具合はどうかね。久しぶりにお前に会うね。いろいろなものを貰われているんじゃないのかい」」
老婦の体がきつきつと揺れた。笑っているようだ。
「「『ひとおに』に好かれているようで、なにより」」
勘弁してくれ。
「昨日のは何だ?」
向こうが次に何かを言う前に、俺は本題を切り出した。
「「昨日の、というのは、お前が渡された写真のことか」」
「確認するまでもないだろ。お前は俺がここにくることを知っていたのだから」
巫祝王は全てを見通す。ここから遠く離れた学校のことも、今から遠く離れた過去のことも。おそらく、未来のことも。
「「いや、それは間違いだな、無知の跡目」」
「は?」
「「時間的な未来や過去を見ているわけではないのだよ、幼い跡目。
昨日、お前がここに来ると決めたから、わたしは待っていたのだ。時間を読むわけではない。記憶…あるいは思考というものを読むのだよ」」
なるほど、今、勝手に俺の思考を読んだわけだな。「「そういうことだ」」
「じゃぁホントに確認してくるなよ、二度手間だな」
「「お前のためだよ、愚かな跡目」」
いい加減、その後ろに持ってくるパターンを統一したらどうだろうか。ただの「跡目」でいいじゃないか。気色悪いな。
「「そうやってわざと口に出さずに挑発してくるものは初めてだな、可愛い跡目」」
ばあさんには悪いがちょっと首を締めてみようぜひそうしよう。
「「昨日のはわたしのあずかり知らぬところで起きたことだ」」
立ち上がりかけると、巫祝王はころりと話題を転がした。
「お前が『三家』を統治してんだろ」
「「大衆はときに理解不能で唐突なものだよ」」
「虚しい言い訳だな。思考が読めるなら分かったはずだ」
「「当然だ。しかしわたしにはそれでもよかったのだよ、無力な跡目」」
巫祝王の声の質が変わる。「「ひとおにの正体を知っているかね?」」
もとより昏い声が、さらにその深みを増した。
「…鬼、だ」
その闇に飲み込まれるような錯覚を覚えて、俺は慎重に声を発した。
「「そう、鬼だ。
ひとおに、人鬼、一鬼、いっき、…『市岐』」」
また小刻みに老婦の肩が揺れた。
「「鬼の正体は?」」
「死霊」
「「博識だな、哀れな跡目」」
巫祝王は嘲笑した。その真意を、このとき俺は測りかねていた。
「「昨日、お前に写真を渡した者がもしお前の友人を手にかけたとしたら、間違いなくお前にその友人を『食わせて』いたはずだ」」
「!」
まさか、と。
「だから、お前は見過ごしたのか…?!」
「「他に理由があるのかね」」
衝動的に、俺は立ち上がって御簾を払いのけ「「下がれ、彝器」」
ぐらり、と眩暈がして、俺はそれ以上進めなかった。その、巫祝王の声の昏さに…
「「わたしは間違っているかね?間違っているのはお前のほうだよ。
『市岐』の「跡目」の役目は次の「跡目」に引き継がれるまで『ひとおに』を守ることだ。
『ひとおに』を作るものは『死霊』だと言ったな?」」
下ろした俺の手を滑って、再び御簾が俺と巫祝王の間を隔たせる。
その向こうで、巫祝王は小さく笑っていた。
「「だったら何も問題はない。そうだろう?
お前の『弟』だって、文字通りお前の中にいるというだけだ」」
「…っ?!」
なんだって?
「「“二度手間だな”、可哀そうな跡目。
知らないのか。『右家』の人間も『左家』人間も、生まれたときに『融即の理』を受けているのだよ」」
体が朽ちた後、魂があるべき場所へ還るように、と。
全身の毛が逆立つようだった。
「『食った』っていうのか?!俺が、育斗を?!」
彼の魂を?!
「「間違いないな。お前は食ったのだよ、貪欲な跡目。
その後熱を出しただろう。お前はまだ、上手く『食べれ』ないようだね」」
吐き気が。
体からの吐き気ではない。「心の底から」の吐き気がこみ上げて来て、足の力が抜けて行った。
今までの突発的な熱の意味が、ようやく分かった。
誰かが死んでいたのだ。『右家』か『左家』かの人間が。
そして、それを『ひとおに』が食っていたのだ。
自分の意志で発熱していたと思っていた先月の熱は、まさに育斗を貪っていた瞬間だったのだ。
「「わたしにしてみれば、お前の『弟』は生きていようが死んでいようがどちらでも都合がいいのだよ。
生きて、お前のために死霊を連れて来てくれてもよかったし、死んで『ひとおに』の糧になってくれてもよかった。
実にすばらしい人間だった」」
滲んだ視界の中で、俺は巫祝王を殺しそうな勢いで睨みつけた。
「「そうやって睨みつける相手は、果たして真にわたしなのかね、浅慮な跡目」」
他に誰がいるというのだろうか。すべての元凶は目の前にいるというのに。
巫祝王は俺の思考を読んだようで、うつむいた老婦の体で深いため息をついた。
「「何も考えず、悩まず、あるがままを受け入れたらどうかね。
お前一人に何ができる。お前のしていることはすべて無駄なことなのだよ。
お前はただ『食う』苦痛に耐えていればいい。今までの「跡目」も、ずっとそうしてきたのだから」」
俺は黙ったまま、巫祝王を睨んだ。それで納得するとでも思っているのか。
わずかな沈黙。巫祝王はやれやれとのたまう。
「「……お前をあの二人に預けたのは間違いだったな」」
「うっせ黙れ」
その二人と言うのが、父と母を指しているのは間違いなかった。
本当の肉親ではないけれど、俺はあの二人が最高の『両親』であると思っている。
作為はなかっただろうが、この『家』に疑問を持つだけの「感覚」をもたらしてくれたのだから。
「………可哀そうな「跡目」さま…」
唐突に、巫祝王ではないしわがれた声が聞こえた。
「…いまだその眼は開かれておられぬようだ……いずれ、あなた様もご覧になられましょう……」
「…ばあちゃん…?」
寄り代の、老婦の声だった。巫祝王とは比べ物にならないくらいの、小さく、か細い声だった。
うつむいた顔の奥で、口が言葉を形作っている。
「……ゆめゆめ、目を背けられますな…眼をしっかり開いて、真っ直ぐと見つめなさい…」
巫祝王とはまた違う、人の心に静かに働きかけるような声音だ。
俺は御簾越しの老婦をじっと見つめたが、それ以上彼女も巫祝王も話しだすことはなかった。
深くには、どちらも同じことを言っているのだけれど