がたん、と大きく電車が揺れて、俺の意識は強引に現実へと連れ戻された。
 夢を見ていたようだ。この間、山本が狙われかけて、俺が巫祝王にいちゃもんをつけに行った時の…
 
 
 
 最近のうだるような暑さにやられつつ、来週に迫った学祭の準備を任されて仕方なく電車の中にいた。
 いつもはチャリで2時間かけて遅刻気味に登校するのだが、今日ばかりは準備のため始業より早く着かなくてはならない。
 ということで、電車(所要時間1時間)で向かっているわけだが…
 
 きもちわるい……
 
 ドア付近の角で人ごみに押しつぶされながら、何とか立っている。
 この時間、通勤通学ラッシュで電車内がものすごい圧力になっていた。ただでさえ乗り慣れてないラッシュ。圧力と生ぬるい空気に、俺はすっかり酔っていた。
 こんなところで吐いたらさぞ迷惑だろうなぁとか、ぼんやりと考えていると、だんだんと視界が狭くなってきた。
 あぁこれはマズイ…
 
 「おい」
 
 誰かが、足の力が抜けて座り込みそうな俺の腕を引っ張った。
 「だいじょうぶ?」
 なんとか見上げてみると、学生服が見えた。どうやら同じ高校の人間のようだ。
 車内が一瞬ざわめく。人が倒れれば、そりゃ驚きもするか。
 心配げに声をかけてくれた女性に、彼は「だいじょうぶです、たぶん気分が悪くなっただけで」みたいなことを、俺の代わりに告げてくれた。
 座り込んだ俺が、彼にお礼を言おうとすると、「いいから座ってて」と頭を押さえられた。
 やがて電車が次の駅に滑り込む。社内アナウンスが流れて、横手のドアがスライドして開いた。
 「立てる?」
 彼の声に頷きながら、なんとか立ち上がると、肩を貸してくれた。高くも無い自分の身長に比べると、肩を貸してくれた彼は結構高いようだ。
 ホームがどやどやとうるさいのは、いつものことなんだろう。
 ホームに設置されているベンチまで辿りつき、ありがとうと礼を言って座ったら、ごろんと横に倒された。
 「ちょ…」
 「駅員さん呼んでくるからちょっと寝てれ。荷物ここにあるから」
 起き上がろうとする頭を押さえながら寝ている椅子の下に鞄を置いて、彼は自分のスポーツバッグからタオルを取り出した。
 何をするのかと思えば、わざわざ自販機で買ってきた水で濡らして絞っている。
 「…まて、まさかそれ」
 「え?」
 きょとんとした声が落ちて、濡れたタオルを俺の額にぎゅ、と乗せた。
 「水、ここな」
 とん、と頭の横に残りの水を置いて、じゃ、と爽やかすぎる笑顔ですたこらと行ってしまった。
 止める間もないというか、一体あいつはなんだというか。くらくらする気分の悪さも手伝って、まともに相手の顔が見えなかった。
 額のタオルを取ってみると、それは学祭のクラスTシャツならぬクラスタオルで、学年とクラスが書いてあった。
 一つ下の…1年のクラスだった。意外だ。同学年かと思った。
 慌てた駅員さんの声が近付いてきたが、その中に先ほどの彼の姿はなかった。
 
 
 「ちょっといい?」
 「あ、市岐せんぱーい!昨日、彩夏先輩が怒ってましたよ?なんでこんなときに休むのよー!て」
 教室の入り口付近に座っていた顔見知りの女の子に声をかけると、なんだか楽しそうに報告をしてきてくれた。
 俺はそれに苦笑する。さっきそのご本人に会って同じことを言われて更に続きそうだったのを、勢いだけで逃げてきたところだった。
 「そうだなー、あや姉も貧血って言葉を知ってるだろうからな、そのへんで分かり合える気がするよ俺たちは。だからだいじょうぶ」
 「どう大丈夫なのかよくわかんないんですけど。
 えと、それで何かご用ですかー?」
 「うん。えーと」
 と言って、俺は教室内を見回した。昨日の奴にタオルを返しに来たのだ。
 タオルくらいよかったのかもしれないけれど、仮にもこれは学祭用?のタオルだし。
 「あ。それうちのタオルですかー?」
 俺が手に持っているタオルを見つけて、彼女は「あぁ」と何か納得をしている。
 「それ先輩が持ってたんですね!さっき祭守が持ってないって言ってて」
 「さいもり?」
 その姓に驚いて、俺は思わず聞き返してしまった。
 「?はい。あれ?知り合いじゃないんですか?」
 じゃぁ何で持っているんだとばかりの顔をされたが、まぁ当然だろう。俺だって何で持っているのか昨日のことだというのに不思議な気がしている。
 彼女の話によれば、さっきクラス写真を撮るのに全員でタオルを広げようということになったが、一人タオルを持ってない奴がいるということで延期になったのだそうだ。
 それが、祭守だという。
 俺が驚いているのは、その姓を持つ許嫁がいるからだ。…血縁者か?
 顔見知りの友人は、教室の奥に「さとしー!」と呼びかけた。一人の生徒が、それにふと顔を上げる。
 確かに昨日の奴らしい。おお、という顔をする彼に、俺は手に持っていたタオルを掲げた。
 「昨日はありがとうな。助かった」
 「わざわざどうもです。俺から取りに行こうと思ってたけど…」
 タオルを受け取りながら、祭守は肩をすくめる。
 「移動のついでだ。気にすんな」
 「移動?どこ?」
 「実験室」
 「送ってくよ」
 「はぁ?」
 ぽかんと口を開けた俺に、むこうがきょとんとしていた。
 「実験室でしょ?」
 「いやいやいや、実験室ですよ?」
 歩いて3分も掛からない気がするけども。
 しかし祭守は不可解な顔をしている。こっちが不可解だっつの。
 「送られる義理?がないんだけど」
 「…?昨日みたいに途中で倒れられても困るし」
 「学校で倒れれば誰かしか保健室に届けてくれるって」
 「じゃぁそれが俺ってことで」
 遅れるよ、と一方的に話を切って、祭守は俺の腕を掴んで歩きだしてしまった。
 それをさっきの彼女が「ええええ??」と見送っているが、俺だって「はぁぁぁ?」だよ、と言いたい。
 
 
 「熱は引いたの?」
 横を歩く祭守が、前を眺めながら尋ねてきた。
 「あー…まぁ、昨日よりかは?」
 曖昧に返すと、ふ、と目の前を影がよぎった。は、と声を上げる前に、ぴたりと祭守の手が自分の額に当てられていた。
 「…俺には昨日とあんまり変わらないように思えるんだけど」
 「お前ねぇ…」
 どこかの友人みたいなことをする相手の手を、俺はやはりやんわりとどけた。
 「熱があるのは日常的なんだよ。これはまだ低い方。ついでに今日も学祭の準備なの。だからだいじょうぶなんだよ」
 「どう大丈夫なのかわかんない」
 数分前にも同じこと言われたな。
 「あんまり無理しない方がいいんじゃない?学祭だからって、他に手はいっぱいあるでしょ」
 「祭守、いやに心配してくれるな」
 はは、と笑い飛ばすと、彼は「そう?」と首をかしげた。普通とでも言いたいのだろうか。
 その横顔をちらりと見たが、そこには同じ姓を持つ許嫁との共通点は見られなかった。
 「祭守さ」
 しかし、こんな珍しい姓がそこここにあるとはなんだか信じがたい。
 「紗希と親戚か?」
 ぴたりと、祭守の足が止まった。おっと、と俺も足を止めて、彼を振り返る。
 
 信じがたいものを見るかのような双眸とぶつかった。
 
 「…………あぁ、そういうことか」
 え、と低く呟かれた言葉に聞き返したが祭守はそれには答えず、その瞳から驚愕を落として、冷たさをまとった。
 とん、と胸を押される。
 後ろは窓だ。硬い感触が背中に当たる。「祭守…?」
 胸には軽く押しつけられるような祭守の手。その彼は、明らかに先程と空気が違う。
 何かおかしなことになっていると、このときになって初めて理解した。
 祭守の目は、静かに自分の手元を見つめていた。
 「……これが、『市岐』の跡目?」
 「!おまえ…っ」
 嫌な予感がしてその手から抜け出そうとしたが、すでに押さえつけられた手には信じられない力が込められていた。
 きし、と後ろのガラスが軋む。
 押しつけられた肺に空気が入らずに、呼吸が苦しくなる。どかそうと両手で手を掴むが、動く気配もない。
 「こんなものの」
 静かな祭守の声に、抑えきれない感情が滲んでいた。
 「…こんなもののために…………………………育斗は死んだのか…」
 「!!」
 
 がしゃん
 
 腕力ではない、身の内にあるものに近い『力』で、後ろの窓ガラスが割れた。
 押し付けられていた自分の体は、そのまま後ろへ落ちていく。
 祭守の悲痛な顔が一瞬眼に入り、次に空が見えた。反射的に目を固く閉じて、
 ……そのまま意識が闇に溶けた。
 
 
 祭守の声に含まれていた感情は、いつか母が漏らした呟きに含まれていたものと同じだった。

とんだ失言