「おはよう、いくちゃん」
 おはようどころではないけれど、と淡々と挨拶をかますのは、やはり今頃教室で授業中の幾乃だ。
 見慣れた白い天井。姉ちゃんがここにいようと、見上げているのは高校の保健室のようだ。
 俺が体を起こすのを見やってから、姉ちゃんはおもむろに口を開けた。
 「窓ガラスが割れた三階下で倒れてるって言うからなんとなく急いで来てみたけど…
 思いがけず無傷のようね」
 「ごめんなさいとでも言えばいいか?」
 明確な棘を持つ姉の言葉に、辟易のニュアンスを込めて返した。
 は、と笑わない嘲笑と言う器用なことをやってのけて、
 「『ひとおに』が守ったってことね。仲のよろしいことで」
 皮肉たっぷりに言いやがった。巫祝王と同じこと言いやがって。
 そこに好意なんてあるわけないだろう。
 「死なれちゃ困るんだろ」
 「知ってるわよ」
 殴ってやろうか、と純粋な衝動が頭をかすめる。仮にも女の子なのでちょっと抑えておく。
 そんな俺の努力を決して知らないだろう姉は、「ところで」と切り出した。
 「誰に突き落とされたの」
 「…?」
 その声が、いやに鋭い響きをもっていたから、俺は思わず姉の顔を見つめた。
 しかし、ただただ冷徹な光を宿す双眸とぶつかるばかりだった。
 嫌な予感がした。
 「何で?」
 「“何で”?」
 わずかに、姉の眉が上がった。珍しく驚いているようだ。
 「弟が突き落とされたら犯人を知りたいのが姉の心情でしょう?」
 「お前、それが通用すると本気で思ってるの?」
 今さら過ぎる白々しいセリフに、思わず突っ込んでしまった。
 姉は「そんなまさか」とでもいうように肩をすくめて、話題を進めた。
 「残念ながらわたしには、いくちゃんと同じように魔力なんて全くないから分からないけど…
 一緒にいた左家さんが"素質持ち"の仕業だって言うのよ」
 素質持ちとは、市岐に置いて魔法の素質を持っている人間のことを指す。
 俺は祭守を思い出した。あれは間違いなく『市岐』の人間だろう。
 それはいい。それはいいのだが…
 「それで?」
 「“それで”?」
 また姉の眉が上がる。ここで、この仕草がわざとであることに今さら気づいた。
 何を試している?
 俺は保健室と言う場所をわきまえて、小声に怒気を込めてうなった。
 「いい加減にしろよ、幾乃。お前、そいつの名前を知ってどうするつもりだよ。
 報復でもするつもりか?」
 「それが?」
 何か、とでも。暗に付け加えるように、姉はあまりに淡々と返してきた。
 「『ひとおに』に害をなすものは消されるものだったじゃない」
 「…やけになってる」
 育斗のことを言っているのだろうか。吐くように、俺は姉の言葉を切って捨てた。
 「お前には言わない」
 「サイモリ サトシ」
 ぎょ、と姉を見た。「いくちゃんはいつも中途半端ね」
 微生物でも見るかのような、憐みの一切含まない見下した目をして、姉は俺を見た。
 「…消すのか?」
 「それはわたしじゃなくて『右家』と『左家』が決めることよ。残念ながら、私はまだ『左家』当主ではないの」
 「お前が言わなければいいことじゃないのか」
 「どうしてわたしにそんなことを隠す理由があるの?」
 「お前は!」
 姉の一言にカッと血が上った。相手の胸倉を掴んで、至近距離でその冷たい目を睨みつけた。
 お前は育斗のことを知ってるだろう。
 存在が消されることの怖さを知っているだろう。
 なのに何故…!
 「逆に聞きたいわね」
 あまりに冷静な姉の声が、耳朶を凍りつかせるように響く。
 「いくちゃんは、どうして彼を助けたいの?」
 「助けたい?」
 は、と今度は俺が嘲笑した。「あんな他人、どうだっていいんだよ」
 唯一、この姉との間でメリットがあるとすれば、本心のままに話していいことだろう。逆に言えば、今さら綺麗事で隠したところでどうにかなるものでもない、ということだ。
 「俺がここであいつの名前を認めたことであいつが消されたりなんかしたら寝覚めが悪い。
 あいつを消すんだったら俺の知らないところで消して、一切俺に気づかれたりしないようにしろよ。
 ただ許さないのは、」
 わずかに眉を寄せる姉を無視して、俺は続けて宣告した。
 「お前がそれを実行することだ。育斗のことを知っているお前が、同じことをするのは許さない」
 その行為が、育斗を最も侮辱することだと思えた。
 姉は、眉間のしわを更に深めた。先ほどのような芝居ではなさそうだった。
 「いくちゃんて、最低な人間ね」
 「はぁ?」
 今さら過ぎるんじゃないかと思ったし、なんでこいつに言われなきゃいけないのかとも思った。
 しかし、姉は俺の手を払いのけて、「思っていたよりずっと、てことよ」と加えた。
 「自分の人生に巻き込んだ人間に、あまりな言い草じゃないかしら。
 智詩が可哀そうだわ」
 「……なんだって?」
 一瞬、姉の頭がおかしくなったんじゃないかと思った。
 『自分の人生に巻き込んだ』?
 姉は大きな瞳をわざとらしく見開かせた。それが、祭守の驚いた顔と重なった。
 「いくちゃん気付かないの?
 
 祭守智詩は、祭守紗希のお兄ちゃんに『なった』のよ」
 
 ……………は…?
 なんだって?
 「つい先月ね、決定されたの。
 立場的には、育斗の後釜ね。資料を読んだだけだから実際は知らなかったけど、相当腕のある素質持ちのようね」
 待て。先月ってなんだ、先月って。
 育斗の後釜?ということは、跡目の補佐と言いたいのか?
 「彼、頭もいいらしいわね。こんな高校よりずっと偏差値の高い学校に通ってたみたい。かなり専門的な知識を持っていたようだから、明確な将来の目標でもあったんじゃないかしら。
 あなたのおかげで全て台無しだけれど」
 「俺のせい?」
 「他に誰がいるって言うのよ」
 当然のように言ってのける姉に、殺意すら覚えそうだ。
 「ふざけんな!俺があいつを選んだわけじゃねえっ!!」
 「ふざけないでほしいのはこっちね。あなた、それをお母さんにも言ってみなさいよ」
 「はぁ…?!」
 もはや姉の言っていることが全て分からなくなっていた。こいつは一体何の話をしているんだろう。
 俺の反応に、姉は本気で驚いたようだ。
 「……まさかとは思っていたけど…本当に『自覚』がないのね、いくちゃん」
 「意味がわかんねーんだよ!言いたいことがあるならハッキリ言え!」
 「あなたは5人の人生を潰しているのよ、いくちゃん」
 
 あまりに重々しい姉の声に、喉で声が詰まった。
 5人…?
 「父、母、わたし、紗希、…そして智詩。
 すべて、あなたのために揃えられた人間だと知ってるわよね?」
 「……?」
 「…呆れた。
 あなた、お父さんとお母さんが恋愛結婚したとでも思ってるの?」
 少なくとも、そうではないと知ってはいた。『市岐』の家族を作るために寄せられた二人だと。
 しかし俺はそれを、事実としてしかとらえていなかった。
 「二人とも、いくちゃんが生まれる前までそれぞれの家庭があったのよ。子どももいた。
 それを問答無用で切り離されたの。
 あなたの『親』になるために」
 この姉の言葉を聞くまでは。
 知らなかった。いや、知っていた。でも知らなかったのだ。想像していなかったのだ。その胸の内を。
 
 
 そのとき、一年前、育斗を『食って』いた熱でうなされていたときの母の言葉を思い出した。
 あのとき、母は俺の謝罪を『許し』はしなかった。ただ、悪夢を見ているだけなのだと言っただけだった。
 それは、一体『誰』に対して向けられた言葉だったのだろう。
 母の悲痛な声を、鮮明に思い出して……愕然とした。
 
 
 「紗希もそう。あなたの子どもを産むための『許嫁』でしかないわ。その子どもを、自分が育てられると決まってもいないしね」
 母がそうだったように。
 「智詩はもっと悲運ね。どんな思いで前の高校に入ったのか知らないけど、それをここにきて一方的な未来の決定。
 今までの彼の努力はすべて泡になってしまったのね。
 しかも、それを当事者は全く知らないようで、揚句にさっきの言われよう…」
 姉の瞳が俺を捉えた。どんだけよ、とその目は言っていた。
 「いくちゃん、どうして何の力もないわたしがいくちゃんの『姉』にいるか知ってる?」
 唐突に、姉は三度不可思議な質問をしてきた。
 当然、俺は答えなど持っていない。そして姉もまた、それを見越してさほど間を置かずに答えた。
 「理由なんてないのよ。他の誰だって良かった。ただ一番あなたの近くにいた人間がわたしだった。
 それだけの、理由ですらない理由で、わたしは『左家』の跡を継がなきゃいけないの」
 いい加減なものよね、と姉は言い捨てる。
 「みんなあなたのために集められたの。
 あなたは『俺が選んだわけじゃないし俺だって好きでこの位置にいるわけじゃない』て言いたいでしょうけど、わたしたちだって決して自分の意志であなたの周りに集まってきたわけでないの。
 勝手に決められて、勝手にいろいろなものから引き離された。
 
 あなたが産声を上げたから」
 
 「そんなの…」
 俺のせいじゃない、と言えなかった。先手を打たれてしまっていた。
 そして、それを言ったところでそれが彼らにとってどうあがいたって言いわけでしかないことは、明白だった。
 「いくちゃんは、それに18年間も気づかなかったわけね。
 これが当たり前とでも思っていたのね。自分からたくさんのものを引き離した原因の人間に、あの二人はそれでも『愛』を持って接していたのにね」
 姉はことりと首をかしげて、ひどく自然に言った。

 「ちょっと死んでくればいいんじゃないかしら、いくちゃん」
 
 その姉の言葉が痛いくらい胸を刺すのは、おそらく俺に『無自覚だった』自覚があるからだ。
 本当の家族ではないことは、もうずっと小さなころから知っていた。それでも、二人はそれが自然のように、取るに足らない些細なことであるように、『親』として触れてくれた。
 当然だと思っていたわけではない。ただ、それが『役目』なのだろう、という考えは持っていた。
 それだけで、片付けていた。
 
 母も父も、その『役目』を『役目』以上に果たしてくれていたのに。
 今更になって『役目』を負わされた智詩も、それでもそれを果たそうとしていたのに。
 
 なんてことをしてきたのだろう。なんてことを言ったのだろう。
 思った以上に最低だと、まさに姉の言葉は真実だった。
 「あなたはわたしたちの『乱入者』なのよ、いくちゃん」
 他者の進むべき道をこれでもかというほどに捻じ曲げさせてしまった産声。
 
 
 責任がないなんて言えない。
 少なくとも、気付かなかった罪が、自分にはあった。

知らないことは罪ではないが、知ろうとしないことは悪だ