弟が死んでから、もう何度も見ている夢がある。
 熱を出すとほぼ確実に、それは夢になって再現された。
 声のない古い映画のように。
 
 しかしその日、ついにそこに声が伴った。
 視界も広くなっていた。感覚も持ち合わせていた。
 夢なのか現実なのか分からないほど、ひどく鮮明な『世界』だった。
 
 
 熱を出した俺の傍らに、育斗が座っている。
 その顔は、いつもの柔らかな笑顔ではなくて、何か思いつめるような表情だった。
 俺の目のために薄暗くしている部屋の中だったからかもしれない。どこか別人のような気さえした。
 ゆっくりと、育斗の冷たい右手が俺の頭を撫でて、その口がいつものような無言ではなく、言葉を喋る。
 「もしも」
 声変りもしていない、柔らかな甘い声が紡がれる。
 「僕に『ひとおに』さまを移せたら、兄ちゃんは楽になれるの?」
 
 
 その問いに俺は何て答えたんだったっけ?
 
 
 
 
 
 
 目が覚めた。
 暗い天井を見つめる両目から、大量の涙が溢れていた。
 頭の中で弟の言葉が繰り返される。
 『僕に『ひとおに』さまを移せたら、兄ちゃんは楽になれるの?』
 それに俺はどうしたんだ。何と返したんだ。
 自問しても、返ってくるのは一つの明確な答えだった。
 
 <頭を上下に動かした>のだ。
 
 これが、弟が『市岐』の跡目になろうとした理由だったのか。
 
 
 
 
 「姉ちゃん」
 ノックをしてから、幾乃の部屋の扉を開けると、姉は机に向かって勉強していた。
 ちらりとこちらを見ると、再び机に目を戻すが、
 「寝なさい、いくちゃん。明後日学祭でしょう。それまでに熱を下げなさい」
 淡々とした声が返ってきた。
 しかし俺はその場に突っ立ったまま、姉との距離を縮めることもなく。
 「…いくちゃん?」
 動かない俺に、姉が再度振り返ったのを確認して、俺は口を開いた。
 「姉ちゃん、俺だった」
 育斗を殺したのは。
 姉は目を細めるように眉をひそめた。
 「どういうこと?」
 「俺が育斗に決意させたんだ。
 育斗が俺から自分に『ひとおに』を移すことができたら楽になれるのか、て聞いて、俺は頷いたんだ。
 頷いたんだ…」
 がたん、と姉は立ち上がった。
 その両手が、ぎゅ、と握りしめられている。
 「馬鹿なことを…『ひとおに』があなたを選んだことを覆せないのは、あなたが一番良く分かってるでしょう…?!」
 俺は頷いた。分かっているのに。分かっていたのに。
 姉は一度息をついて、声をひそめた。
 「いつの話よ」
 「たぶん…半年前くらいだ。俺が長い間熱を出してたとき…」
 「半年?!」
 姉が叫ぶ。
 「その間に育斗には言ったの?それはできないことだ、て」
 俺は首を振る。「なんで?!」
 信じられない、と言外に含めるような声で、姉は問い詰めた。
 「あなた半年の間に何をしていたの?!どうして言わなかったの!あなたが言えば育斗だって考え直したはずでしょう?!」
 そんなバカな考えを、きっと育斗は考え直しただろう。
 俺が一言でも、一度でも彼に「それは俺の役目だから」と言えば。
 どうして言わなかったのか、と聞く姉に、俺は答えることを躊躇った。
 それはひどく単純な答えだったからだ。
 そう、「……忘れてた」からだ。今の今まで、忘れていたのだ。
 姉は猛然と俺の胸倉を掴んで、自分の方へ引っ張った。
 漆黒の彼女の両目が、その奥底が、これ以上ないくらいの憎悪に揺らめいている。
 「……お前と言う人間は……っ!!!」
 絞り出すような声音だった。
 小さな姉の口が、何かを言いたげに空振ったが、ぐ、と目を閉じると掴んでいた胸倉を突き飛ばすように放した。
 俯いた姉の方が、細く揺れていた。
 「……許さないわ…」
 小さく、嗚咽のような呟きが聞こえた。
 「わたしはいくちゃんを許さない。絶対に……許さない…」
 不思議と。
 姉のその言葉がすんなりと受け入れられたような気がした。
 自分も全く同じ気持ちだったからだ。
 死ぬまで、俺は自分を許せないだろう。この「一度」の点において、絶対に。
 
 
 正直なところ、この事実に気づくまでは所詮「しょうがないこと」だと思っていた。
 母も、父も、姉も、祭守の二人も、そして俺も、この立場に生まれてきてしまったのは誰も彼も自分の責任を外れたところに原因があると。だからそれは、誰にもどうしようもできないものだと、たかを括っていた。
 ひどくショックではあった。
 しかしそれだけだった。
 
 けれど、育斗は違う。
 
 俺が一度でも訂正すれば、きっと免れただろう。少なくとも、こんなことにはならなかったはずだった。
 俺があのとき、熱の痛みに耐えていれば。
 もっとちゃんと、育斗の言葉を聞いていれば。
 だって俺は知っていたのだから。
 あの子のやろうとしていることは、絶対に無理であるということを。…知っていて、それでも俺は頷いたんだ。
 この痛みをどうにかできるのならば、何にだってすがろうとして。
 「……さいあくだな…」
 半年間、全く思い出さなかったのだ。
 どれだけの時間があった?どれだけの時間、育斗と一緒にいたと…
 どうしてこんなときになって思い出すんだと……
 
 
 目の前で幾乃が泣いていた。
 姉の泣くのを見るのは、育斗が死んだ直後以来だった。
 ごめん、とは言えない。それを言う立場ですらない。
 
 姉の言った『乱入者』の意味が、「心の底から」理解できた。

それを選んで生まれたわけではなかったのだけれど