姉ちゃんの泣いている顔と、
父さんの頭を抱えた姿と、
智詩の見開かれた目と、
それから…
一体これから、どれだけ彼らのそんな姿を見ていくことになるのだろうか。
ぼんやりと目を開くと、いつもの白い天井。
見慣れたそれを見上げながら最後の記憶を辿ると、文化祭の裏方を手伝っている途中で途切れていた。
最近、よく眠れない。いつも真夜中に目が覚めて、何度も何度も目が覚めて、総合的に寝不足になっている。
起き上がると幾分の眩暈が寄せてきたが、それもなんだかどうでもいいような気がしてきた。
ジャージのポケットに入れていたケータイを取り出すと、山本からメールが入っていた。
どうやらさっきまでついていてくれたらしいが、呼び出されて戻る、とのことが送られていた。
寝不足のせいで、彼に心配をかけているようだとは自覚しているのだが…
だいじょうぶと返信してベッドから出ると、「もう大丈夫なの?」と保健医が声をかけた。
「無理はしないでね?
"君一人"の体ではないんだから」
「……」
俺は苦いものを噛みしめながら、保健室を出た。
歩きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
あの保健医は、学校で俺を監視するための『左家』の偵察だった。
「そうそう跡目を自由にさせるほど、『左家』は甘くないわよ」
と、次期左家当主の姉は言い切った。
教室に戻る前に、俺は焼却炉に来ていた。すでに焼却炉自体は使われていないが、ここに段ボールなどを保管しているからだ。
教室の内装補正のための段ボールが少なくなっていたことを思い出していた。
「いーくちゃん」
ふと、後ろから舌足らずな調子の声がして、その人物に目処をつけながら振り返ると、やはり想像通りの人物がいた。
「来てたのか、紗希」
「いくちゃんの学校の学祭だもーん。来年から紗希も通うしねー」
中学の制服を着た紗希が、相変わらずの読めない笑顔で立っている。
「それにー、紗希のお兄ちゃんもいるしー?」
にやり、という表現がしっくりとくる嗤い方だった。
俺はしかし、そうか、と取り合わずに段ボールの選別を続けた。
「いくちゃんはー、お兄ちゃんに会ったんでしょー?お兄ちゃんいくちゃんのこと言ってたしー」
「あぁ、会ったよ。ごめんな、て言っておいてくれ」
そういえばあれから話してないなと思い出した。俺がこの一週間ぶっ続けで休んだということもあるが。
ふと、後ろの紗希のお喋りが途切れた。
「紗希?」
「………今さらじゃない」
振りかえると、俯いた紗希が低く呟いた。は?と聞き返そうとして、唐突に押し倒された。
天上を覆うように、紗希の陰った顔。
「ひどいよいくちゃーん。なんで今さらごめんなのー?そんなのもう遅すぎなのよー?」
「……」
紗希の笑顔が、歪んでいた。
この兄妹は血が繋がってないくせに行動はどちらも唐突だなと、頭の片隅で考えている自分がいた。
その横で、また自分の発言が人の心を引っ掻いてしまったようだと気付いた。
「いくちゃん、どうして育斗は消されたの?本当にいくちゃんから跡を継ぐのを譲ってもらおうとして消されたの?」
「…うん、そういうことに…なるかな。俺が、育斗にそれを決意させたんだよ」
「……」
紗希の顔から表情が抜けた。
馬乗りになっている彼女の手が、ぎゅ、と握られた。
「……育斗は…この『家』にとってとっても必要な人間だったはずよね…それを、こんなにもあっさり消してしまうのね、『市岐』は……」
ぼんやりとした口調だった。それが何か、逆に彼女の中でもの凄い量の思考が回っているような様子だった。
不意に、彼女が嗤う。
「それだったら、こんな紗希みたいな人間、すぐに消されちゃうよねー」
そして、紗希は青空を仰いで、歌うように言った。
「紗希はぁ、ジユウな恋愛がしたいから、いくちゃんとは紙の上での結婚で、子どもつくるだけの仲にしましょーね☆」
ふふ、と息を吐くように、微笑む。
「…なんて言ったら、……やっぱり消されちゃうのかなぁ、いくちゃん…」
ぐしゃりと、紗希の表情が崩れた。握っていた手が、俺のシャツをかきむしるように引っ掻く。
俺の胸に頭を押し付けるように、彼女は俯いた。
「怖いよいくちゃん…どうして紗希なの?どうして紗希が巻き込まれなきゃいけないの?
いつか紗希も消されちゃうの?いくちゃんは……それをごめんで済ませるの…?」
あ、と。
さっきのが大した失言だと、今さら気づく。そんなつもりではなかったのだけれど…
「どうして紗希がこんな思いしなきゃいけないの?いくちゃんがいるから?」
「……」
俯く紗希の顔が見えない。俺は彼女の背を支えながら上体を起こした。
紗希は…生まれたときから俺の許嫁と決められていたらしい。それは、『市岐』の中でその当時年の近い異性が、彼女の他にいなかったから、という理由なのだそうだ。
決して、『紗希』である必要はなかったのだ。
「いくちゃんどうして…」
小さくて、細い肩を抱きしめた。腕の中で震えるのは、俺より二つ下の…その身の内に紛れもない市岐の力を秘めていても…何の特異もない普通の女の子だった。
「どうして生まれてきちゃったの、いくちゃん……」
紗希の言葉が、冷たい氷のようにするりと心臓の上を滑った。
そのとき、生まれて初めて天啓というものを得た気がした。
すべての答えが、不意に、湧き水のように冷たく浮かんできた。
これほど平和的な解決方法もないだろう。これほど……残酷な解決方法も。
「だいじょうぶだよ、紗希」
抱きしめた紗希の涙で、自分の胸が濡れていくのが分かった。
「怖くないよ、紗希。紗希は消えないから。だいじょうぶだから」
声を殺して泣く紗希が可哀そうだった。声を上げてしまえばいいのに、と思った。
そして、その方法が確実であると確信できたら、一番に彼女に伝えようと考えていた。
いつの間にか学祭が終わり、紗希の顔が頭から離れないまま家に着くと、なぜだかやっぱり幾乃のほうが先に帰って来ていて、なぜだか複雑な表情で「おかえり」と迎えた。
「…母さんがハンバーグ作ってるわ」
それがどうしたと。
聞き返そうとしたが、その前に姉は部屋に戻ってしまった。
居間に向かうといい匂いがして、テーブルの上にできたてのハンバーグが綺麗に皿に盛り付けられていた。
5個。
これか、と思った。
「母さん」
台所で鼻歌を歌いながら鍋をかきまぜている母を振り返って呼ぶと、「あらお帰り」といつもの笑顔で母も振り返った。
「今日、誰かくるの?」
「?いいえ?何で?」
きょとんと、母は首を傾げた。俺はそれに何とか笑顔を張り付けて、並んだハンバーグを指して、
「一個多い」
と指摘した。
母は、それでも不思議そうな顔をして首をかしげている。
「あらホント。どうしてかしら…?」
「どうしてかなぁ?」
その理由を、俺はおそらく正確に理解していた。
これが限界なのかもしれない。そうだとしたら、やっぱり…
「困ったわねぇ。お父さん、もう一個食べてくれるかしら」
母の疑問は、何故一つ分多いのかではなく、一つ分をどうしようか、に呆気なく移っていた。
俺は…それを見逃すことにした。
「いいよ、俺が食べるよ」
「そう?ふふ、よかった。いくちゃん、いつもあまり食べないから、そう言ってくれると嬉しいわ」
そう言うと、母はまた鍋に向かった。
その背中を、とても遠いもののように眺めた。
母のハンバーグはおいしかったはずなのに、その日は砂を噛むような感触しかしなくて、自分が何を食べているのか曖昧になってきているのが分かった。
ハンバーグは育斗の好きなもので。
俺はそれ以降、その食べ物を食べることができなくなった。
なお記憶に残るもの