学校の屋上で、傘を差しながらいつものメンバーで昼飯を取っていた。
 そろそろ期末だとか、来年は受験だとか、そういや予備校通うのかとか。
 来るべき未来があって、時間が刻々と迫って、やがてこのメンバーとも別れるときが来るんだな、と、それは決して卒業とかの話しではないことを考えながら、俺はみんなの話に混ざっていた。
 今のこの瞬間を、あとどれくらいの間、記憶に刻みつけておけるのかなぁ、と。
 
 そう思いながら、俺は「先に戻ってるわ」と断って、トイレに向かった。
 
 
 
 洗面台で口をゆすいでから鏡を見ると、相変わらず死人のような肌色をした顔があって、ちょっとこれはひどいなとさすがに思うと、手のひらで頬を軽く叩いて、「よし」と気合を入れた。
 だいじょうぶ、と小さく口の中で呟く。
 で、トイレのドアを開けたら、腰に手を当てた山本がいるので、何事もなかったように締めようとして
 「いやいやいやいやこら」
 がっ、とノブを掴まれて一緒に引っ張られた。「おっと」とよろめいた自分を軽々と山本に支えられてしまって、いつかこいつよりでかくなってやると無駄な決意をしっかりと心中でしてみた。
 「とら、吐いてたろ」
 そしてやっぱり気付かれていたかと。
 「吐いてません」
 「いやお前…また真正面から嘘ついてきたな…」
 呆れた顔で山本が見下ろす。それから、両手を天井に向けてあげて、
 「とら、ばんざーい」
 ほれ、と促してきた。なんの遊びだ、と思いながら山本にならって両手を上に向かって挙げる。
 ぱんっ、と腹を背中を両手で挟まれた。
 「ほら!お前絶対痩せたって!!」
 「つかこれで分かっちゃうお前ってなんなの?!!」
 山本も驚いたようだが俺も同じくらい驚いた。
 ぱんぱんと両脇腹を叩きながら、山本が呆れたように言う。
 「最近ちゃんと食べてねーだろ!前からあんまり食べない奴だったけど、最近ひどいぞ!
 お前どーすんだよ、これから俺ら受験生だし、ちゃんと大学行くなら勉強しなきゃだし、これじゃ体力もたねーよ?」
 「心配しすぎだって。そのときになったらそれなりにちゃんと何か食べてなんとなくやり過ごすって」
 「ごめん、お前のそのすっげーアバウトな未来予想図を聞く限りは俺に心配させてくれ」
 「マックでポテト買って予備校で食べながら受験勉強に必死こくとでも言っておけばいいのか。
 てか叩くのやめろ!くすぐったいっての!!」
 身をよじって脇腹叩きから逃れようとすると、ニヤリと山本が笑った。
 「逃げんな!まず腹筋から割ってみよーか!!」
 「ぎゃぁぁぁ!やめろ!マジで意味が分からんっ!!」
 叩いていた手をくすぐりに変えて、山本がのしかかってくるので、くすぐったくて力が抜けるわ重いわで二人して廊下に転倒する。
 尚も山本がくすぐってくるので、久しぶりに声を上げて笑い続けて。
 
 不意に、それにいたたまれなくなった。
 
 「…とら?」
 驚きと、疑問と、いっしょくたになった山本の声と一緒に、遠くから始業のベルが聞こえた。
 そんななんでもない一瞬にひどく哀しくなってしまったのだ。なぜここにいるのが俺なんだろう。
 「…ごめん」
 泣いてる顔を見られたくなくて、山本から顔をそむけた。
 「なぁ、ホント、お前どうしたんだよ。
 この間からお前、変だ。何かあったんだろ?」
 俺の上からどいた山本が、俺の腕を引いて起こした。
 どうしていいのかわからない、けれど、それでも聞こうとする山本の顔。
 そう遠くない未来、自分はこの友人を失うのだ。
 
 
 
 
 「『ひとおに』を消そう」
 と言った俺の顔を、幾乃はまじまじと見つめた。
 「それは…物理的な意味で言ってるわけではなさそうね」
 以前、『ひとおに』があってこそ『俺』が存在すると言った姉だ。
 今さら『ひとおに』がいなくなったところでどうにかなるわけではないだろう。むしろ状況が悪化する可能性を孕む。
 『ひとおに』の力を消したところで、『市岐』がなくなるわけではない。人はまた違う『力』を求めて同じことを繰り返すだろう。あるいは『ひとおに』の力を取り戻そうとするかもしれない。
 『跡目』を違う人間に継がせたくないだけで人を消す家だ。中途半端につついたら、どう出てくるか分からない。
 そう、この全ての起因は『ひとおに』の存在ではあるが、問題は逆に『人』のほうにあるのだ。
 次に消されるのは紗希かもしれない、智詩かもしれない、母や、父や、姉かもしれない。
 
 中途半端に突いてはだめだ。
 行動を起こすなら、徹底的に、根本的に……壊滅的に。
 
 「育斗を消した方法と同じように、『ひとおに』の存在をみんなの記憶から消す」
 
 それが俺の受けた天啓だった。
 それはつまり、「…いくちゃん自身を消すことになるのよ?」
 そうそう容易くは、綺麗にまとまることがない。
 『ひとおに』を消すということは、ただそれだけを消せばいいことではないようだ。
 それは例えば、母さんのハンバーグ。
 人の記憶は、ほんのささいなことで揺れる。その施術は、外部的な記憶の消去と、人の記憶にまつわる防衛本能を利用して存在を消すのだ。
 それはとても強固で、とても不安定なものだ。『きっかけ』が常に傍に居ては、いつどんなことで掘り返されるかわからないだろう。
 だから『市岐』は育斗を殺した。存在を消すだけなら育斗自身の記憶も消して、遠くへ追いやるだけでよかったはずだ。命を奪わなくてもよかったはずだ。たとえ俺たちに見せしめの意味を持たせるためだとしても、記憶から消されるだけで十分な恐怖なのだから。
 『ひとおに』の記憶を、俺自身からは消せない。そんな自分が、傍にいるわけにはいかない。
 『ひとおに』を消すということは、だから、同時に『市岐幾寅』を消すことと同意になる。
 「分かってるよ」
 誰も傷つかない。誰も悲しい思いをしない。誰も苦しい思いをしない。
 強いて言わせてもらえるなら、俺自身を除いて。
 「いくちゃんはそれでいいの?」
 だってそれしかない…とは言わないけど、それが一番いい方法だろう。
 望ましい形なのではないのか。
 「そうすれば、母さんや父さんや、紗希や智詩や姉ちゃんが…その後で笑えるだろう?」
 俺は姉の黒瞳を見つめた。自分と同じ形をした、色違いの双眸。
 姉は決然とした口調で答えた。
 「笑えるわ。必ず」
 その答えに、一つ、自分の握っていた『何か』が零れおちた気がした。
 
 
 「悪い夢を…」
 掴んでいる山本の手を、俺は切実な思いで掴みかえした。
 「悪い夢を見ているんだ…」
 彼はそれを、不思議そうな顔もせずにただ見つめていた。
 こうして真っ直ぐ『自分』を見てくれるから、自分はこの友人にどうしても甘えてしまうのだ。
 
 
 幾乃に同意を貰った後、俺はすぐに紗希にその話を告げた。
 「…本当なの、いくちゃん」
 信じがたいような表情で、紗希は俺を確認した。
 俺はその瞳に頷いた。「だから、少しだけ、俺に時間をくれ」
 もう少しだけ。その施術を見つける、そのときまで。
 紗希はじっと俺を見て、そしてほほ笑んだ。
 「うん。わかった」
 ふわりと、いつもの嘲笑的でない、柔らかな花のような笑顔だった。
 「ありがとう、いくちゃん。…未来に消えてくれて」
 
 あぁそうだったのだ。と。
 こうすればよかったのだ。こうすれば、受け入れられるんだ、と。
 やっと自分を見てくれたような気がして、本当に嬉しかったのだ。
 そんな自分を自覚して、そのときにもう一つ、今度は自分から『それ』を落とした。
 
 
 「辛いんだ、悲しいんだ、怖いんだ、山本…」
 涙が溢れて止まらない。どうしてこんなに泣けてしまうのかが不思議だった。
 だって零してきたはずだ。落としてきたはずだ。もうすべて。
 
 
 「とても…悪い夢を……見ていたのよ…いくちゃん………」
 そのとき、手で覆われているはずの視界が、微笑む母を映していた。
 夢だ。夢のはずだ。
 母のこの先の言葉は、夢だからだ。
 
 「よくも生まれてきてくれたわね、いくちゃん」
 
 
 熱を出すたびに、俺は母のこの言葉を夢の中で聞かされた。
 こんなこと、現実で言われたくなど…
 だったら、笑ってくれていた方がいい。それがたとえ、自分が消えることを喜んでいたのだとしても。
 
 
 握りしめていた、おそらくその『それでも繋がりたい甘え』を、もう自分は持っていられなくなって、バラバラと落ちていくそれをただ眺めていた。
 
 
 俺の言葉に、山本はうん、と頷いてくれた。
 「そうだな、悪い夢なんだな、怖かったな」
 その一言が、痛いほどに優しい。だから、つい口をつく。
 「俺だって…」
 俺だって、……しかしこの先を言えないほどには、自分を許せない。
 俺は育斗を追い詰めたのだ。俺が、追い詰めたのだ。
 それはまかり間違いなく、自分の選択だった。この一点において、俺はその先を口にしてはいけないだろう。
 
 沈黙して、ただ泣きじゃくる自分の背中を、山本は同じように無言で撫でてくれた。
 小さく、俺はこの友人を失う未来を悔やんだ。
 
 
 
 この涙が止まれば、あとはそれさえも感じないスピードで走り切るだけだ。
 
 ささやかな痛みには、それまで固く固く、蓋を閉じて。
 
  『ささやかな痛みの終り』 END

いまだあふれる痛みに、今は目をそむけて