『黒い手 白い手』
早朝、エセル・ラインバートは授業に向かう道の途中で奇妙な物が落ちているのを見た。
まだ授業が始まるには早い時間ではあるが目が覚めてしまい、特にすることが無かったので足を向けてみただけのことだった。
早起きは何とかの得という言葉があるそうだが、これは誰にとってみれば得だったのか。
「あ、えったんだ」
落ちているものの得にしかエセルには思えなかった。
その物体は近づいたエセルの気配に気が付いたように顔を上げて、右手を「いよぅ」とでも言うように軽く上げた。
その生き物にエセルは見覚えがあった。
見覚えがあったのだが、「こんなものだっただろうか」という違和感が何故だか脳裏をよぎる。
「なぁなぁえったん。ちょっと頼みごとがあるんだけど」
地面に伏せたままのそれは、どこで付けてきたのか以前に見たときにはない医療用の眼帯を付けていて、その反対側についているもう一つの眼球をきゅうと細める。
にこり、と表現するには少し奇妙な形をしているように見えた。
「ちょっと運んでくんない?」
「何を」
「俺と荷物」
「どこに」
「メディカルセンタ」
肩が外れちゃったのだよ、とそれはしょんぼりといった様子で補足する。
エセルは呆れたため息を落とすでもなく、それが当然と言うほどには淡々すぎる表情でそれを見下ろしていたが、がっしと動いていた右手の方を掴むとひょいと肩に担いだ。
「ぃいっったぁぁ゛っっ!!」などと、肩の上でそれは叫ぶが、相手の肩が外れているなど全く考慮に入れてないのだから当然だろうと、…いうことは、思っているのかいないのか、エセル・ラインバートという男はツッコミもしない。
「いたいっ!えったんすっごくいたいっ!!」
「暴れると落とすつもりもなく落ちるぞ」
「もっとイヤっ?!」
そう言ってしまえば、今度ははっしと背中の服を掴んでくる。
テンションの高さもノリ方も前と変わらないように見えるのに、腹の底にたまるような違和感をさっきからエセルはずっと感じていた。
しかしそれは自分の考えるところではない。
この肩の人間がどういう経緯を辿っていようと、およそエセル自身の領域とは全く関係のないことであった。
エセルの関心はすぐに肩の生き物から外れ、頼まれた事柄を果たすべくくるりと来た方向を振り返る。メディカルセンターに行くためには、中央校舎に戻らなければいけない。
そんな機微を察したわけでもないだろうが、タイミングを見計らったかのように肩の生き物が切り出した。
「えったん、また後ででいいんだけどさ、もう一回"観て"くんねぇかな?」
「……無償じゃないぞ」
「うん、ビジネスだな。それでいいよ、つかそっちの方がいい」
軽く笑うような声で、生き物は返した。
その方が腐れない、とでも言いそうな笑い方だった。
「ええと、依頼内容によるんだよな、うーんと」
以前、事故でこの生き物の…その中にある"記憶"を"観た"ときに、エセルはこの能力を商売道具であるから相応の対価を貰う、と話した。
「依頼内容は、この中にある特定の人物の記憶を追って欲しい。
人物を特定するには何が必要?そうすると対価はどうなるかな?」
「……お前の中の記憶は厄介だ。探る時間が必要になる。すぐには返せない」
「ん、おけ。じゃあ考えておいてくれよ。出来る限りえったんの要望に沿えるようにする」
逆に言えば、沿えない部分もあるかもしれないということを暗に示したそれに、エセルは小さく唇を上げた。
そこに親愛の感情は無い。ぬかりない卑屈さに、エセルは嘲笑したのだ。
了解、とエセルの短い返答を聞いた生き物もまた、小さく笑った。
一応の形で生き物の身体が落下しないように押さえるエセルの手は、黒い手袋をしていた。
メディカルセンターのエントランスホールに着くやいなや、エセルは肩の荷物を待合のソファーに無造作に置いた。
「や、だから、いたいってっ!!」
むがぁぁ…っ、と振動に痛む左肩を抱えながらそれはバタバタとする。
おそらく初めに「丁寧に運べ」とでも言ったらまだましだったかもしれない。ということは、両者とも考えない。考えつかない、という方が正しい。
もがくそれに視線もやらず、用は済んだとエセルは戻ろうとする。後はこの生き物が勝手に人を呼んで治療なりなんなりすればいいことだ。
「えったん」
歩きかけたエセルの背中に、『聞き覚えのない』声が掛かる。
思わず振り返ったエセルの視線の先には、ソファーの上からこちらを見る隻眼がいた。
「ありがとうね」
隻眼が奇妙な弧を描いた。笑ったのだと認識するには難解だった。
その笑みのようなもので紡がれた言葉は、全く表面上の意味とは違ったものを内包しているような響きがして、全く嬉しくなかった。
エセルは不快を隠すことも無く眉を寄せてそれを睨みつけ、再び授業へと足を向けた。
メディカルセンターを出ていく背中を見送って、白い生き物は自身のカバンから馴染んだケータイを取りだした。
下宿先に事の経緯の概要と、負傷した旨を伝えなければならない。
文章を打ち込みながら、ふと生き物の目に白い指が見えた。まるでそれを初めて見るかのように、表、裏、と掌を返しながらまじまじと。あるいは白い甲にあるぐずぐずと歪んだ火傷の跡を見ていたのかもしれない。
しかしすぐにメールの途中であったことに気付いて、ぱたぱたと続きを打ち込み、送信した。
打ち終わったケータイを閉じて、ぱたりと腹の上に右手ごと落とす。
隻眼を閉じる。
もう少しすれば職員が転がっている荷物とともに見つけるだろう。
今夜の訓練には何が何でも向かうつもりの生き物のようだ。
⇒つづくよ
夜の痕跡、と書くととても妙な感じになる不思議 (・・・笑うところだよ)