「まいど」
そう言って、その生き物はフィブリス・フォーリアを見て笑った。
おそらく笑ったのだと、フィブリスは判断した。
「来れたのか。普通にびっくりした」
「いやいや、訓練するよって言ったのはフィスさんじゃんかー」
いつも通り正直なところをフィブリスが言ってみるといつも通りのそれの反応が返ってくる。
違和感満載である。
よもや昨夜のショックで記憶など飛んでないだろうかと問いかけたくなるが、そんな事態であれば今までのどこかから情報が入ってきてもいいはずだ。
平穏無事に今日1日が過ぎたということは、昨日の事実は事実のままお互いの記憶の中にあるということだ。
その結果がどうであろうとも。
昨夜、自分が外した肩は入れてもらったらしく、左肩から腕にかけは今は頑丈に身体に沿うように固定されている。
本日はこれで訓練に臨もうというようだ。
ロクに動けないのではないか、とフィブリスは懸念したが、そういう場合の想定ということであれば条件はいいだろう。衝撃でまた外してしまわないように、こちらが注意を払えばいいだけだ。
気になるのは、この目の前の生き物の、気配だ。
昨夜までとは微妙に…それこそ気にしてなければ分からないくらい微妙に…気配が『ぶれる』。
人一人の気配にしては雑音が多すぎるように感じられた。ひどいノイズだ。
「…だいじょうぶか??」
考え込んだフィブリスに、生き物は心配だという様子で首を傾げた。
「どうもねぇよ。さくっと始めよう」
「おーよ」
黙って考えるよりも、直接ぶつかった方が得るものが多いようにフィブリスは考えた。
自分の感覚は、そこでこそ最適化するからだ。
外したのは生き物の効き手である左の肩だった。
腰に携帯しているウォレットチェーンを武器化するのももどかしい相手の様子に、フィブリスは肩をすくめる。こういう機会が出来てよかった。
やがて形作られた抜き身の短剣を軽く振って、「おけー」とぎこちなく構えた。
フィブリスは先に仕掛けるということはほとんどない。先制するときは本気で、かつ必殺を決める時だ。
じり、といつものように目の前の相手の出方を伺う。「いつも」ならば、目の前の友人は素直な直線から攻撃を開始する。
しかし、今夜はどうだろうか。あまりいい感触を目の前の存在から受けない。
空気を呑む音が聞こえた。
来る、友人の足が大地を蹴る瞬間、
フィブリスは背後に異様な圧力を感じた。
「?!」
それはいつもこの相手が使ってくる『領域』と呼ばれる空間指定の魔法だった。
しかしその立ち上げスピードが速い。少なくとも昨夜までは範囲指定から発動まで一拍ほどのブランクはあったはずだった。
背後からのイグニのうねる手、前方には向かってくる相手、フィブリスは迷わず前進する。横方向へ回避するとでも思っていたのか、向かってくる相手は意外だというように眉を上げて、自分が予想していたタイミングとはずれて剣がぶつかる。
明らかな体格差、フィブリスの重さのこもった剣に押し返されるように、それは後方へ退避する。
剣を弾かれずに身体ごと自主的に回避したのは、ここまでの訓練の賜物と言えよう。
フィブリスは攻撃の手を休めない。
後方へ退避したそれの構えが再び整う前に、更に足を踏み込む。
確かめたいことがあった。だから、技巧よりも単純な力技で押す。2、3歩くらい踏み込んでしまえば、もう相手とは至近距離だ。
この相手は、距離が詰まるとお互いの間に『領域』を空ける癖があった。距離を取りたいのだろう、こちらと向こうでは射程範囲も数段差異がある。
確かめたいことがあった。
さっきの『領域』から発動されたあの魔法式は…
「"ひとおにのことわりをしめせ"」
予想通り相手は『領域』を開く、予想外にフィブリスを内包して。
脅威的な反射でフィブリスは右手へ回避した。幸いなことに、今度は発動までにブランクがあったのか、『領域』は発動せずに気配を消した。
相手に向かって左方向への回避、生き物の対応が一瞬遅れた。フィブリスは素早く身を捻り、袈裟がけに剣を振り下ろす。
隻眼の相手は身を屈め、飛び退る様に後退し距離を空ける。片目が潰れた上に片腕が身体に密着した状態など、この相手は初めてだろうにいやに身体のこなしかたを知っているように見えた。
バランスを崩さない。
そして、フィブリスは気付いた。この、ずっと腹に燻っている違和感の正体を。
"あれは誰だ?"
それが一番正確な表現だった。
先ほどの2回の魔法攻撃、その立ち上がった魔法式の構成はそれぞれに完全に別人だった。最初の魔法式と後の魔法式の組み立て方…知っているはずの目の前の相手の組み方とは違う。
理論よりは感覚的に体得してしまうフィブリスは「これがこうだから」という根拠を持っては言いにくいが、逆に感覚的であるからこそはっきりと分かった。
これは"何"だ?
友人だったはずの相手が動く。その隻眼は昨日見た隻眼と同じはずなのだが。
向かってくる途中で、それは短剣に重力制御を掛けた。攻撃魔法から補助魔法、よく器用に覚えてくるものだと思った。
ぎりん、とぶつかるそれの刃はさきほどより格段に重い。しかし相変わらずの本体は軽量ゆえに、フィブリスが押し返すのは簡単だ。この方法は、もっと自重がついてから初めて効力を発揮する。
今のこの相手では、単に人並の重さになったにすぎない。
押し返された相手がき、とこちらを睨む。
来る、とフィブリスの直感、宣言、同時、回避、一瞬前まで自身がいた空間が炎上する。今度は速い。
フィブリスが回避したことに相手は動じない。宣言の直後に炎上する空間を気にもせず、その隻眼はフィブリスを追いかけて踏み込む、月光に短剣が翻り、再び互いの刃が重なる。
今度ははじき返される前に相手が流した。
「イグニ!」
そしてすぐに宣言する、同時に発動、今度も速い。
舌打ちし回避しようとして、彼は気付いた。
「っ!!」
自分を挟んだ両側からの『多重展開』だった。しかも最初から同時に展開していたら避け切れるだけの技量をフィブリスが有していることを見越して、片方の存在を隠し、タイミングをずらしての発動。
後方に避けるというタイミングを失したフィブリスは、その場で防御する。
そしてエルフの長い耳が、草を蹴る音を拾った。あの生き物が迫る。
もはやもどかしさの欠片もなく右手で剣を突き出すその生き物の、その目を、どこかで見たことがあると思ったら。
こちら側でか、となんとも穏やかにフィブリスは納得した。
『キミのサヨナラ』
突き出された刃を僅かな動作でかわし、その刃を握り込み、更に引き寄せる。
「残念だったな」
純粋に楽しそうに唇を釣り上げて言葉を滑り込ませ、フィブリスは引き寄せた生き物の胴を、体重をかけた右足で思い切り蹴り飛ばした。
声にならない悲鳴を上げて、面白いほどに吹っ飛んだ生き物の身体が離れた地面に叩き付けられる。受け身を取らなかったのかと、フィブリスは苛立たしげに舌を打った。
だが、叩きつけられた生き物の身体が左腕を抱えるように蹲ったのを見て、「あ」と気付いた。
そう言えば相手は肩を負傷していたのだった。胴体に密着させるように固定されているのだから、当然、先ほどの蹴りは腕ごと蹴り飛ばしたことになる。
「ありゃりゃ…」
なるべく、腕への攻撃を避けようと思っていたのに、うっかりした。
やっちゃった☆みたいな顔はしてないが、そんな気持ちで近寄ってみると、歯を食いしばって痛みに耐えている生き物の顔が見えた。
これはダメそうだと、フィブリスは後ろ頭を掻いて言うことは、
「すまん」
簡潔に一言。「フィスさんの…鬼…っ!!」などと軽口が返ってくるくらいには無事なようだと、フィブリスは確認した。
目じりに水分を溜めてフィブリスを見上げる相手の目は、もういつものそれだ。
「ずいぶんとやるようになったじゃないか、一晩で。何か体得でもしてきたのか?」
にやりと笑って尋ねると、歪んでいた隻眼がきゅうと細まる。
「秘密だよ」
そう言って、その生き物はフィブリス・フォーリアを見て笑った。
おそらく笑ったのだと、フィブリスは判断した。
なんとはなしに、フィブリスは笑ってしまいたい気分だった。
⇒つづきはむこうがわで