『常闇との逢瀬』




「「お前がここに来るとは珍しいな、小さな跡目」」

…お前の語尾も健在のようで何よりだ。
「「ふふ…実際は夏以来、だが、あの時お前はお前ではなかったからね。
久しぶりにお前と話せて嬉しいよ」」
本当に嬉しいようだ。いつもよりテンションが高いように見える。
俺は御簾から一歩下がったところで座った。
「…育斗を殺した人間が失踪していることは知っているだろう?」
「「そんなことを聞きに来たのかね」」
「その人間も含めてだが、最近、妙な動きをしている奴らがいることは知っているのか?」
「「…そんなことを聞きに来たのかね」」
くつくつと、巫祝王は笑った。
いつ聞いても、この笑い声は背筋が凍る。
「「幼い跡目、よくお聞き」」
低い地鳴りが、腹に響くようなおよそ声帯から発せられる声ではない声が鼓膜を叩いた。
「「いつかもお前に言ったね。"しかしわたしにはそれでもよかった"、と。
誰が誰をどうしようと、すべてひとおにに還るのであるなら、わたしはそれでよいのだよ。
いくらでも争いを起こしたまえ、愚衆よ。
そうして還るがいい、静寂の常闇へ」」
……こいつは…
俺たちは大きな誤解をしていたのかもしれない。
この暗闇は、俺たちの争いなど全く眼中にない。
監視などしていない。そんなもの必要ないのだ。
どう転がろうと、ひとおにがその中心にいる限り、すべての市岐はこの人外の掌の上で茶番劇を繰り返すだけなのだから。
「「お前と右家の当主が何か企んでいるようだがね。
それすらもわたしにはどうでもよいことだよ、愚かな跡目。
お前が生きている限り、ひとおにも存在し続けるのだからね」」
「……」
「「秩序を守りたいのも壊したいのも、わたしではないよ。
お前たち人の方だ」」

恐ろしいことに。
今、一番正確で正しいことを言っているのは、この人外なのだ。

俺は無意識に立ち上がった。その足が震えていた。
本当の意味で、…ようやく…俺はこの家の恐ろしさに気づいた。
生きている限り、命が巡る限り、記憶が繋がる限り、この連鎖は終わらないだろう。
俺と智詩は、そんなものを相手にしようとしているのだ。

……戦うべきは『市岐』の人間ではないかもしれない。
いくちゃんが『戦うべき相手』は、本当はないのかもしれない…
形のない漠然とした…“概念”という相手…?……


いつか姉はそう言っていた。
その"概念"は、常に市岐と言う人間の"向こう"にあるのだ。
市岐の人間と対峙するたびに、その影を見るだろう、俺たちは。
そしてその"概念"の象徴が、この巫祝王であり、ひとおになのだ。
ようやく、智詩の言っていたことが分かった。


目の前のこれは、消さなくてはいけない。
正義とか倫理とか、そんな話ではない。ただひたすらに、消さなくてはいけないものだ。

"概念"を相手にするということは、そういうことなのだ。


「「帰るのかね?」」
後ずさった俺に、拍子抜けしたような声音が御簾の向こうから投げられた。
「お前に聞くことは…初めから無かったんだな」
「「6年越しだが少しは成長したようだな、小さな跡目」」
震える足を踏みしめて、俺は踵を返した。「「幾寅」」
名前を呼ばれ、思わず振り返る。
霞んだ御簾の向こう、俯いた小さな体が、小さく揺れる。
「「人とは、実に面白いものだな」」
「……そういうお前も、かつて同じものだったんだろ」
返す俺に、奴はやはりきつきつと笑うだけだった。






「…俺はさぁ、とら」
祭事の準備。
4年前に着た白布の衣に袖を通す。控えて手伝うのは右家の当主だ。
黒い飾り帯を手に取った智詩が、ふと切り出した。
「育斗は多分、積極的に死んだんじゃないかな、て思うんだ」
帯を締める手を休めず、智詩は呟いた。

『反撃ができないのであって、防御はできたはずでしょう?それなのに、即死、てことは全く無防備だったわけだ。
おかしいよね。あれだけの技術を持っていた育斗だもの。防げないはずがないよ』
とは、藤本さんの家から出た後にもう一度、智詩が話した理由だ。
淡々とした口調に、僅か、苛立ちのようなものが見えたのは気のせいではないと思った。
いつかのように、抑えきれない感情の欠片を落とすような声音だった。


「……なぜ…?」
「なぜ?なぜってそりゃ、決まってるじゃない。育斗だからだよ。
あの子は、ひとおにのためにあの子を殺した人間よりも、俺よりも、誰よりも、…市岐の人間だったからだよ」
死んで食われれば、ずっとひとおにの傍にいられるでしょう?
と、智詩は吐き捨てた。

智詩が話したその影を、ずっと一緒にいた自分が見なかったわけではない。
薄々と勘付いてはいたのだ。ただ、それから目を背けていただけで。

初めから自分は分かっていたのではないかと思えてきた。
育斗のその覚悟を知っていたからこそ、あのとき、自分はあの子の言葉に頷いたんじゃないだろうか。
そうして…?そうして自分はどうしたかったんだ?



……おかしいだろう。
目を背けていたのは、育斗を市岐の人間として見たくなかったからだ。
ただ、ずっと兄と弟の関係が続くことを望んでいたからだ。…それだけだ。


ただの兄弟で済まないことも分かっていながら。
だからこそ。

素晴らしいだけで終わらないのが世界の理