一発ぶん殴ってやろうかと思って、サングラス越しに相手の目を見て思いとどまった。

 色素欠乏のために赤い虹彩を持つ彼の視線の色は、地元で何度か見たことがあるものに近かったが、それよりずっと性質が悪そうだった。
 今にも、右と左の眼球がそれぞれ独立して好き勝手な方向を向きそうな気がする。
 その前に、グルンと回って頭蓋内を覗き込みそうな気もする。
 錯乱寸前という色に近いが、それだけでは済みそうにない。
 頭の中の糸がブツリと切れて動かなくなるならマシなほうだ。物事の前後が吹っ飛んで闇雲に攻撃してくるのも、まだ判る。
 その2つが同時に起こったら、人間と言う種族はどうなるのだろう。

 生憎と2つ同時に起こったダークエルフすら見たことがないギアは、目の前で幾寅君の体が真っ二つに裂けたらビックリするなぁ、という間抜けた想像と感想を抱くくらいしかできなかった。

「聴覚は塞がなかったから、聞こえてると仮定するわよ。
 返事はしなくていいわ、たぶん出来ないでしょ。
 幾寅君の中の誰かさん達、ちょっと持ち上げるけど、酷いことはしないからね。」

 正月明けに聞いていたのだから、気をつけるべきは自分だったと、ギアは思う。
 思うだけで、あまり深刻に落ち込んだり反省したりはしないのだが。



 まさかとは思ったが案の定、という話しである。

 確かに、幻薬ツインスターを全て砕いて混ぜて服用した暁に何が起こるかは実験をしなかったので判らなかったが、予想は立てていた。混ざって妙な変化を起こすような材料はまだ使えないのだから、恐らくは失神するか何も感じないかの2択であろう、と。
 全て自分で服用したとしても、己の触覚・視覚・味覚・感情・睡眠時の夢が、己に伝わるのだから問題がないはずだ。大きい結晶と小さい結晶を繋ぐ魔法的なケーブルに乗る各情報は、物理的な問題を全てスルーする。送受信においての遅延は発生しないため、効果が出ていても本人には感知できないのだ。
 これについては、フォウス・ヴェーダの女子が一瓶丸々自分1人で服用しても、「美味しかった」という感想が出ただけで心身への影響は全くなかったという事例が1件ある。

「視覚はあるみたいだね。
 どこから見てるのか、そもそも【今】を見てるのかは判んないけど。
 味覚は微妙なところだけど、触覚はあるのかね?」

 それは心身共に健康で健常な者に限ったことで、今現在ギアに抱き上げられてソファーに寝かされた市岐幾寅という人物は、少々外れる。

 市岐幾寅は、人間の一個体だが、1人ではない。
 彼は、自身の体内に「何か」を飼っている。

 出身世界が違うため、ギアにとっては非常に理解しにくかったが、そういうことらしい。
 その「何か」の正体についても、ギアはいまいち判っていない。
 つまるところそれは「虫」と「元は人間だったもの」であるようだ。
 2つがイコールなのかニアリーイコールなのかノットイコールなのかは今のところ曖昧だ。 
 本来なら何も感じないはずの幾寅の様子がおかしいところから、彼と共に幻薬の効果を受けた「何か」は伝達できる情報を持っていることになる。それが常人の感覚器が知覚できるものなのか、「何か」が固有に持っているものなのかは、共有している本人しか判らないこと。

「俺が小さいほうを食えば体感出来るだろうけど……やめとくわ。
 解析したいなら、後日ちゃんと実験してみようね。
 えっちゃん、だっけ。何をどうしてこうなったか、判る範囲で教えてくれる?
 その前に、ちゃんと挨拶したことなかったっけ。
 ケセドのギア・スクリュです。いつも幾寅君をお世話してます。」

 動いて喋るピンクのウサギぬいぐるみに向かい、こっちはこっちで混乱かつ慌て気味の彼(?)に把握している範囲の情報を吐き出し、事態を飲み込んだエウブレウスからの説明により、複数のツインスターの砕けた一部分を紅茶に入れて飲んだことが判明。
 欠伸でもしそうな気怠い表情でソファーを一瞥し、ギアはエウブレウスに片手を振った。

「ここは一発鳩尾辺りに衝撃加えて、ゲロ吐かせると同時に意識も落としてやろうかと思ったんだけど、それっくらいならそこまでしなくても良さそうよ。
 俺が妙なもん渡したばっかりに、心配かけてごめんねぇ。」

「いや、とらが悪そうだぞ、この場合は。」

「うん、正直俺も、8割7分くらいは幾寅君が悪いと思ってる。」
 
 幾寅は大層不快かつ苦しい思いをしているだろうが、ギアにしてみれば8割7分は本人の自業自得であるため、あまり可哀想に思ったりはしていない。
 元来、男子に対して「罪の意識」や「同情心」を抱くことが少ない男だ。
 しかして、腐っても治癒幻惑魔法科・治癒回復コース所属、放置するわけにもいくまい。
 ツインスターの効果は3時間。こうなってしまっては、短いようで、長い。
 机に置かれていた、自分が贈った瓶を取り上げ、赤い大きな結晶を口に入れる。硬そうな外見の割にはあっさり溶ける薄甘い砂糖の味を飲み下すと、対になる小さな赤い結晶を摘み上げた。

「幾寅君、口開けて。」

 開けて、と言いながら、ギアは右手の人差し指で幾寅の唇を捲り、上下の歯の間に親指の先を捻じ込んで、無理矢理に口を開かせた。すぐに持っていた小さい結晶を口内に放り込み、指を抜く。
 唾液のついた指をジャケットの胸の辺りで適当に拭いながら、

「全部少しずつだから、今飲んだヤツのほうが効き目が強いはずだよ。
 君が悪いんだから、その気持ち悪い感覚共有は暫く体感なさい。
 今度から幻薬その他よく判らないものを扱うときは、気をつけなよ。
 感情だけは、俺ので上書きしてやるわ。」

 幾寅の中に存在する「何か」の間では、最早どこが送信者でどれが受信者なのか判らない情報伝達の混乱が起こっているのだろう。幾寅本人は、その混乱に繋がっている可能性が高い。
 幾寅本人に明確な「自分」があるのは当然だが、「何か」の自己認識は曖昧なはずだ。
 そもそも、「何か」は複合体であるらしい。
 どこまでが「自分」なのか判っていない複数のものに対して、単方向型の伝達ケーブルを、送信側と受信側の区別なく無作為にばら撒いたのだから、混乱が起こるのは当たり前である。
 鏡張りの小さな箱の中で、いくつもの光が乱反射しているような状態。
 それを内包している市岐幾寅は、はっきりとした「自分」を持っているが故に混乱そのものに溶け込むことはない。ただ、その箱の中を強制的に見せられ、埋もれかけるだけだ。
 これが少量ではなく一瓶丸ごとであったら、人間にも備わっている「高負荷のかかる情報処理は放棄する・強制終了する」という防衛機能によって早々に幾寅は失神していただろう。
 鳥類との視覚共有実験を行ったギアと同じく、認識できる範囲の感覚であり、脳が処理できる程度の情報量であるがために、情報処理を放棄することも出来ずに苦しむハメになっている。
 自分の中に別種の存在がいる市岐幾寅だけが体験する、珍しくも面倒くさく、願わくば体験したくはない事例である。

「えっちゃん、この部屋、灰皿置いてあるっけ?
 俺、あんま幾寅君の部屋に来ないから……、……あー。
 うん、埋まってたのは確かに俺本人です。その節は驚かせまして。
 あん時は俺も吸おうと思わなかったから、覚えてないんだよね。」

 ツインスターは単方向、ギアから幾寅への一方通行でしかない。
 今、幾寅に伝わり、彼から「何か」に伝わり、混乱の1種類を塗り潰そうとしているのは、種類が乏しく起伏のないギアの「感情」だ。
 最近になって「哀」が欠落していると判明したギアの喜怒哀楽は、実は非常に薄い。
 平常時のギアの内面と言うものは良くも悪くも波風が立たず、酷く凪いだ状態を保っている。それは、エウブレウスをからかったり、幾寅についての苦労に同意して笑ったりしている今も変わらない。
 表面に現れる感情の大半はフェイクに近い。
 決して装っているわけではないのだが、実際に立つ感情の波はとても小さいのだ。
 ギア本人にとっては小さくとも波が立つだけで上出来なのだが、周囲には理解されない。
 ソレンティアで過ごす短い時間の中で自分も他人も極力不愉快な思いをせぬようにとなけなしの気遣いを振り絞り、表情筋を最大限に駆使して自分としてはオーバーな表情を浮かべた結果が、傍から見たギア・スクリュというダークエルフである。

「あ、そうだ。
 幾寅君、無理だとは思うけど、変に抵抗しないでよ?
 強盗とか来ない限りは俺の感情動かないと思うから、それに乗ってたほうがなんぼか楽よ。」

 ギアとしては、あまり取りたくない方法だったが、他に幾寅にしてやれることがない。
 よもやこんなことになるとは思わず、効果時間も3時間だからと解除薬は作らなかった。

 幾寅に対して、「やりたくないこと・やらないこと」のラインが低くなっていっている気がする。
 
 己の内面が、実は表層ほどには動かないのだという事を、誰かに知られるのは自殺行為。
 ギアは、そう思う。
 顔は笑っていても本当はそれほど面白くもおかしくもないのだと知られることは、人間関係においてデメリットばかりだと思う。それを相手に教えてしまうのは、酷なことだとも思う。

 そう思っていながら、幾寅に感情を流すのは、そこに妙な信頼があるから。

 何かにつけ部屋にやってきて、その度に長く話しこむことも珍しくない、この虚弱な人間の青年を、ギアはギアなりに信頼している。
 表情と内心にズレがあることを知られても、何が変わるということはないだろう、と。
 根拠があるわけではなく、ただ漠然と、ギアは市岐幾寅に対してそう思っている。
 それが外れたとしても「あら、そう」で済ませられる距離にいる幾寅に対し、何故かそんなことを思う。
 その距離にいるからかもしれない。

 嘘はつかないが、本当のことも言わない。
 過剰に情報を吐き出すのは、本当に見せたくない部分を隠すため。
 多少の不利益を甘んじて受けるのは、後の大きな損害を回避するため。
 行動の全ては己のためであり、相手の気持ちなど考慮に入れることはない。 

 人に見せれば理解は得られるかもしれないけれども、決して仲良くなってはもらえないであろうギアの思考回路の片鱗を、幾寅は何度も見て、それでもまた部屋に来る。
 繰り返すうちに生まれた、奇妙な信頼。
 お互いの思考回路は、ある意味では対極であり、ある意味ではよく似ている。そう思っているから、ギアは幾寅を「いつ切り離してもいい位置」に置いたまま、少しずつ腹の内を見せるようになった。
 
 エウブレウスと一緒に、なるべく幾寅の中の「何か」を刺激しないよう声を潜めながら、それでも幾寅について馬鹿だ間抜けだと言いたい事を言いながら、その裏で一方的に伝わっていく感情は「無」に近い。
 良い言い方をすれば穏やかであるそれは、少しでも幾寅と「何か」を慰めているだろうか。


 「哀」がないギアの感情は、それを補うように、1種類が突出している。
 ギアにも自覚があり、だからこそ、例え部屋のドアからでも、誰も来ないことを願う。

 凪いだ水面に大きな波となって現れるのは、「怒」。
 すぐに収まるとは言え、ほんの些細なことで突如として発生する怒りの感情。

 表情に出ないだけで、押さえ込むことに慣れているだけで、ギアの沸点はとても低い。
 今誰かが騒々しくドアを開ければ、それだけで瞬間的に殺意に近いほどの怒りを覚えるくらいに低い。
 一瞬のうちにトンでもないアップダウンを引き起こすそれが、幾寅と「何か」に対して、良い結果を与えるわけがない。


 現在、ゲブラー男子寮の一室では、とぐろの中心に卵を抱いた蛇のような男が欠伸をしている。
 
 


ギアさん中身さま、ありがとうございましたっ!!
涎と涙はしっかり拭いてから転載させていただきましたっ!ご安心をっ!!
しっかりツインスターととらの状況をご説明していただいていて、なんかもうそのままひとおにのあたりは幾寅詳細に使ってしまいたいです・・・   

二人の距離というのはほんとにドライであるというかおっしゃる通り「なんなの?」な距離でありますが、
いっそいろいろ憶測を呼べばいいんじゃないかと思います。←そこ?!
まことお世話になりっぱなしでお手数おかけしております。べ、べつに遠慮なんかしてないんだからっ!!(用法間違い
どうぞこれからも変わらない位置からお世話になれればうれしい限りです☆
SSありがとうございましたーーっ!!!