「なんで…なんでなんだよ、フィスさん!!」

 そう言いつつ、腕の暖かいものを抱えつつ、叫んでみては、そう言いながら、
 予想くらいはしていたんだ、俺だって。


 『暁に微笑む』




 「俺が勝ったらそのうさぎ、とらに殺してもらう」

 預けられていたうさぎを森に返すからと、フィスさんに呼び出されて森に来た俺に一言。
 そうして容赦なく"訓練"が始まった。

 耳を疑えはしたけれど、目までは疑えなかった。
 目の前の赤毛ダークエルフの双眸は底冷えしていて、こんなにも普段の色を消せるものなのだと思った。
 その目は知っていた。
 俺ではない誰かが。

 全力だった。
 全力で戦って、負けたのだ。
 この空気は知っている。
 他の誰でもない俺が。


 死ぬのだと分かった。
 俺か、この腕の中の生き物のどちらか…いや、両方が。死ぬのだと。


 「俺とお前が賭けをしてお前が負けた。…それだけの事だろう?」
 「だからって…何で!!俺達には関係の無いウサギじゃないか!
  怪我をしていたのを拾ってきたんだって、アンタだったろ??」

 彼が俺にこの怪我をした生き物を預けたとき、何か違和感を感じたのだ。
 その違和感を、今ならはっきりと分析できる。それは罠だったのだ。
 怪我をした生き物を目の前に、この男なら2択しかない。
 生かすか殺すか。
 そして生かすためなら、中途半端に俺には預けない。確実に治療を行える場所に預けるはずだ。
 だからもう片方。殺すために、そこに別の意味を付与するために、俺に預けたのだ。

 けれど俺は、それに感づいていながら、彼の「頼みごと」に浮かれて疑問を放り投げてしまった。
 彼に何かを頼まれることに、それを返せることに、ひどく心が躍ったのだ。
 その結果がこれである。

 ぱたり、と若干の質量を伴うものが落ちた音がしてはっと視線を向けると、見覚えのある茶色の破片が落ちていた。
 腕の中の生き物がいやに暴れたので落ちたのがその耳だと認識して、慌てて拾い上げる。
 切れたところにくっつけてみて、これどうやって治すのだったろうか、サナス?サナスはどうやって発動させるのだったろうか。
 手が震えてうまく繋ぎ合わせられなくて、領域を広げようとしてもいつもの蒼い燐光が散るだけで、開きっぱなしの乾いた口内からは言葉にもならない声が断続的に漏れるばかりだ。
 『誰か』が悲鳴を上げているのが聞こえるれど、うるさい、うるさいから少し黙っていて欲しい。
 視線が定まらずに上を見上げてみると、自分と同じような色のくせに冷え切った金属の色の双眸が、呆れたように自分を見下ろしていた。

 「お前がグズグズしてるからだろ?」

 そうだ、自分がグズグズしているから、なにもかもが壊れてしまうんだ。

 「俺はお前にソレを殺せと言ったんだ。
 さっさとやらなきゃ、今度は反対の耳を切り落とす」

 目の前に、赤い色のついた切っ先が突きつけられた。
 ここ数カ月で格段に以前より身近なものになったという匂いなのに、目の前のそれはそれまでとは更に濃い匂いがした。

 腕の中の生き物が死ぬ。
 自分と目の前の男にも、ましてや市岐にも全く関係の無い生き物が。
 自分が負けたので。この男に負けたので。これが死ぬのだ。
 この事象を、前にどこかで見てはいないだろうか。

 「だ、だめだ、どうして、いみがない、いみ、いみ、がっ」

 唐突に、腹部に重い衝撃を受けて体が後方へ吹っ飛んだ。反射的に体を丸めたのは訓練の賜物だろうか。
 蹴り飛ばした長い脚を下ろして、彼がそれほど速くもない速度で歩いてきた。
 未だ呼吸の整わない自分の腕から生き物が抜け出した。しかし歩くのが遅い。足が、足をひきずって、あぁそうか、さっきの衝撃でどこか、あしを、
 聞いたことも無い悲鳴が上がる。茶色い華奢な足が、足に、鈍い色のナイフで地面に縫い付けられた。

 ふと、今度は嗅ぎ慣れた匂いがした。喉の奥がしびれるようなその匂いの元は、草を踏みしめる音と共に近づいてくる。
 赤毛が煙草を咥えていた。普段は吸わないというのに。
 赤く灯る煙草の先端を凝視していると、徐に彼がうさぎの足からナイフを、抉るようにして、捩じり抜く。

 "ナイフを抜くときは捩じる動きを加えると傷口が広がる"

 気付いたら彼の腕にしがみついていた。

 「あ、やめ、ごめ、ごめんなさい、やめて、どうして、」

 自分でも何を言っているのかよく分からない。何を、何に対して謝っているんだろう、この人に謝ったってしかたない、けれど、何か、どうにか、なるんじゃないかと。
 そんなわけもなく。

 呆れたような息が落ちて、もう片方の手で彼は銜えていたタバコを取るとそのまま足元の小さな生き物へ近づいた。
 しかし押し付けられたのは、その間を割って入った青白い手。初めて嗅ぐ匂いが鼻をついた。そうして遅れて、脳を貫く痛みに『近い』感覚。
 手の下のこれだったら死んでしまうんではないだろうか。
 だいたいなぜ、この生き物がそんな目に合わなくてはいけないのだろうか。自分が負けたから?自分が負けるとなぜこの生き物が死ぬことになるんだろうか。

 「どうして、だってまだ、あぁ、あ、まだ、えさをあげてな、ないよ、じかんがえさの、だって…!」

 じゃあ餌をあげたらこの生き物は死ぬんだろうか。ではどうしてこの生き物はここまで生きて来れたんだろうか。

 「甘えるなよ、とら。
 今日の餌がやりたかったなら、何で俺を倒さなかった?何で勝たなかった?」

 「どうしてっ!どうしてどうしてどうしてどうしてしぬんだよぉっ!なにもない、なにもしてないよっ!?おれがよわいから、よわいのはおれだから、なんでもいなの、」

 どうしてと叫びながら、その答えを気付いていた。中の誰かが呆れたように囁く。だからそこにいるのはつらいばかりだというのに。
 自分が何かを決意するたびに、何かを動くたびに、誰かと何かが痛い思いをしなければならないらしい。目の前の赤毛はそんなこと自分だけではないと言っていたけどどうなんだこれは。
 ここまで生きてきたこの生き物は、ここで自分という生き物に関わってしまったから死ぬんだろう。
 自分がいなかったらこの生き物は死ななかったし、この君もこんなことをせずに済んだんだろう。済んだんだろう?
 
 「ごめんなさいゆるして、」

 ごめんなさいほんとうにごめんなさいここに存在してすみません君にもキミにも。

 「だめだ、だめだだめだだめだだめ」

 彼の足が生き物の足を潰す。青白い手が再び彼の腕に絡んだ。
 彼の腕が熱かったことに驚いた。いつも人の体は冷たいものだったので。自分の方が体温が高かったので。
 死んだのだと思った。

 「だから?」

 腕を掴む自分の肩を、彼が掴む。
 景気のいい音がした。
 左腕が無様に垂れさがって、声にならない悲鳴が喉を震わせる。

 「実戦の時、護りたかった誰かを傷つけられても、お前は同じ言葉を吐くのか?」

 水分でぼやけた視界の向こうで、冷やかな金属の眸が光る。

 「とらが何と言おうと、アルが何と言おうと…それが戦うってことだし、それが俺だ。
 んでもって、とらは負けた。これ以上話す意味は無いな…」

 そして彼の唇が形作る。「俺は楽には殺さねぇよ?」

 胸のあたりに重い衝撃を感じて、自分の体が支えを失ったように後ろへよろめいて、転がった。
 ざく、と。彼の草を踏みしめる一歩がいやに大きく聞こえた。
 うさぎは弱って動かない、茶色の毛並みが浅く早く上下するのが見えて、近づく彼の手には月明かりのナイフが反射、左半身が激しい痛みでマヒをするような茶色の毛並みの柔らかで暖かい弾力の、原因は自分で自分の弱さで黒い瞳で草を食む時にもいもいと口が動くからはじめてのうさぎで、知っていたのだ彼はこうなることをこうなることが狙いで狙いだったのだそれはそれが戦うってことの姿だから安楽死は小さい頃に犬が病で助からなくてそれは意味があって今はただただ自分が彼に彼を彼が彼のナイフが前動作も無くもう片方の耳、どうしたら救われるんだ、どうしたらこの悲鳴が、痛みが、終わらせることが、

 再び、今度は見せつけるようにナイフが動いて、

 彼が何かを言ったことを、中の誰かが聞き取って、



 ききゅ、という空気の摩擦音とともに、白い光が茶色い生き物を呑みこんだ。



 「………」

 浅くて速い呼吸がうつったかのように、自分の肩が激しく上下している。
 かざした右手の指先が、"反動"でひりひりと火傷をしているようだった。

 魔法なんて代物じゃなかった。狭い領域の中にただエネルギーを詰め込んで詰め込んで詰め込んで詰め込んで詰め込んで詰め込んで…うさぎをつぶしたのだ。
 生き物がいた場所の地面は黒く焦げ、僅かな煙を上げている。あの小さな影は、形すら無い。
 自分のものではないような呼吸と涙と(たぶん)鼻水が収まらない。

 ぐ、と襟を掴まれて、横から彼の低い声が聞こえた。
 何を言っているかは聞きとっているはずなのに、どうしてか意味までを汲み取れない自分の頭の中で誰かが泣いている。誰かが怒っている。誰かが嘲笑している。誰かが笑っている。誰かが、首を傾げている。
 なにがわるかったの?

 横を風が通り抜けた、と思ったら視界から彼の姿が消えていたので、どうやら帰って行ったのだと分かった。



 そして、俺の視界からは何も無くなったのだ。
 






⇒つづくよ 

おはよう まで あと すうじかん

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